主の公現(B年)の説教=マタイ2.1~12

2012年1月8日

主との出会い

先日タクシーに乗る機会がありました。60歳代の男性でした。「お客さん、最近の日本も随分と様変わりしましたよね」「どんなふうにですか」「何といっても、お正月の風物詩がなくなりましたよね。門松、しめ飾り、こま回し、羽つき、すごろく等」「そういえばそうですね。でも最近は、年末になると海外旅行のブームで、テレビでも何万人が海外で正月を迎える予定、とニュースにしてしまいますからね」

日本にその時期にいないということが、日本人の気質まで変えてしまうのでしょうか。それにしても、わたしたちはたくさんのこと、人に影響されながら大きくなっていきます。以前は関心の高かったものが、いつの間にか消えてしまっていたりします。正月にまつわる風物詩のエピソードを調べたりしてみると、楽しいものです。豆知識として知っているといないとでは、関心の向け方に大きい差が生まれます。

今日福音に登場する当方の博士たちにとっても、同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」。彼らの関心がどこにあったのか、マタイはこの話を通して、キリスト誕生をどのようにとらえていたのかをうかがい知ることができます。当時の人々が、ローマ皇帝を「現に生きる神、王」として認め、敬っていた時代に、「王はどこに生まれたのか」という質問は、たいへん危険な表現といえます。しかも、一番まずいヘロデ王その人に投げかけたのです。

世間ではローマ皇帝が「平和の君」として慕われているかもしれないが、その実、それはまっかな嘘です、ということをマタイは伝えたかったのでしょう。

また、東方の博士たちの、当時おかれていた状況を考えると、彼らの関心がイエスさまの誕生に向いていたことを読み取ることができます。と言いますのは、彼らは仕事の性質上、ユダヤ人からは偶像崇拝者として蔑視されていました。それゆえに、真の平和と安らぎと希望を求めて、意を決して長旅に出たのでした。

ローマ皇帝の中ではなく幼子の中にこそ、真実な王の姿をかぎ取っていたのでした。彼らもヘロデのことを知らなかったわけではないでしょう。また、立派な指導者として尊敬していたに違いないかもしれません。それでも、ヘロデ王の中に真にその飢えを満たす力を見てはいなかったのです。

わたしたちは自分の力で何かを見いだすのではなく、導かれて辿り着くのです。この姿勢をいつも大事にしたいものです。博士たちは導かれ、惹かれていったのでした。その先にあったものは、・・・。日本の風物詩の中にも神のメッセージを読んでみたいです。