年間第24主日(A年)の説教=マタイ18.21~35
2011年9月11日
わたしたちの毎日の生活は、確かに聖人になるために備えられたものです。カトリック教会の長い歴史の中で、「聖人」としてあがめられている人々の生き方は、特別な苦業や犠牲、あるいは長い祈り、断食等が必要であるかのような印象を、わたしたちに与えてきたのではないでしょうか。
また、“信仰生活と現実の生き方のはざまで”、というような表現にあらわれているように、信仰の理想を現実離れした生活に結びつけていたのかもしれません。しかし、本当は、わたしたちの身近な、ごく日常的なできごとの中に、信仰の実りは実現するのであるということを、今日の福音はわたしたちに伝えています。
つまり、信仰生活と日常生活に遊離はないということです。中でも、今日の福音が強調しているのは「ゆるす」ということです。わたしたちの日々の生活は、このゆるしを前提に織りなされているといっても過言ではありません。それだけに大切な日常の心がまえとなります。わたしたちは絶えず「人」に向かっています。協力して何かを達成し、互いにゆるしあうことによって元気と勇気をいただき、平安と癒しをいただき、提供しあいます。いつもゆるされ続けないと立ってはおれないのです。
イエスさまもゆるしについてはくりかえし教えられます。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さる」(マタイ6章14節~15節)。しかも、ゆるすことがどのようなことなのかを示しているのが、今日の福音であります。よく知られているたとえ話です。
1万タラントの負債をかかえた男が登場します。1万タラントとは、今の日本円に換算しますと、30億円をこえる額になるそうです。相当な額で簡単に返せるものでもありません。しかし、決済の時がきますと、払わなくてはいけません。
当時の習慣として、負債を返済できないときは、妻子は奴隷として売られることになっていました。そうなりますと家族がばらばらになります。それだけは避けたい男は、返済次期の延期変更を願いでます。
要は、王のこたえに、今日のたとえの確信があります。
それこそ想定外の答えが返ってきたのです。「常識はずれ」の全額負債のゆるしを言い渡したのです。そのキーワードになったのが、「あわれに思う」という心です。これは命に対するやさしさです。みじめな命を目の前にしたとき、見ぬふりができない心なのです。神のこのやさしさを、日常の中でわたしたちが受けるためには、ただひとつ、わたしたち一人ひとりが、周りの人の命にやさしくあることです。
信仰者の成長は、日常の「わたし」の中にこそ、その根があります。
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