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神の母聖マリア:親子のかかわりを振り返り、「安心感」を提供しあえる家族を目指したい

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神の母聖マリア(A年)の説教=ルカ2・16~21

2017年1月1日

2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

神のふところは限りなく大きい

においあてっこ

夕ぐれどき。あちこちの家から、晩ごはんのいいにおいがしてきます。友だちと、においあてっこをしながら帰りました。くんくん、いいにおい。(中略)このおうちの晩ごはんは、絶対カレーライス!

しばらく歩くと、またくんくん、いいにおい。(中略)このおうちの晩ごはんは、きっとおすし!

またくんくん、いいにおい。(中略)このおうちの晩ごはんは、エビフライかトンカツかコロッケかも。ぐー。あーおなかすいちゃった。

「ただいま!」家に着くなりいいました。「おかあさん、今日の晩ごはんね、カレーとおすしとエビフライとトンカツとコロッケ食べたい!」
(讀賣新聞大阪本社夕刊2016年12月10日「においあてっこ」真珠まりこ作)

ぬくもりの要にお母さんがいる

こうした話を目にしたり、耳にしたりしますと、本来の人のぬくもりを感じます。小さな集落で生活をしていた幼い頃を思い出します。あの頃は、お互いにないものは補い合いながら助け合って生活していたな、と。いわゆる、「物々交換」がなされていました。

それだけ近所付き合いがごく普通に、日常生活の一部になっていたのではないかと感じます。極力人間の温かさをお互いが必要としていたのでしょう。当事者に意識されていなくても、・・・。

夕方遊び疲れて家路につく頃は、真珠まりこさんが書かれているような体験をよくしたものです。もちろん食事内容がかなり違いますけど、・・。

いつの時代も、いずこの国においても同じであろうと思うのは、家に帰ったときに、何といってもお母さんがいるかいないかで、子どもの表情と気持ちに違いが出てくるということです。お母さんの存在は、子どもにとっては安全、安心のバロメーターです。そのお母さんの一言が子どもに与える影響は、多大なものです。

マリアさまの母としての歩みは、・・

子どもの成長は筋書きのないドラマです。お母さんの一言で、子どもは新しい自分に出会うことができます。それ故に「あなたはできる」とささやき続けることです。「あなたは素直な子ね」「あなたは意外に努力家なのね」と言われることによって、子どもは素直な自分に出会えるし、努力家の自分に出会えることができます。これらのことが、子どもの育ちの確信となってぐんぐんと前に進んでいきます。

何も子どもをおだてあげようというのではありません。子どもは、お母さん、親の言葉によって自分をその言葉通りに同一化させようとします。言葉のみならず、親のその仕草についても同じことが言えます。だから、「見せる教育」は大事です。

神の母聖マリア:羊飼いたちは、マリアとヨセフと乳飲み子を探し当てた
神の母聖マリアの福音=ルカ2・16~21 〔そのとき、羊飼いたちは、〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

今日は「神の母マリア」の祝日で、一年の始まりの日でもあります。いわゆる、この一年を、神の母マリアの執り成しと保護に委ねようという思いを強くしてスタートしたいものです。母としてのマリアさまの姿は、多くを語らず、お告げの時に、すでに受け入れていた「未知の歩み」にとても配慮なさっているように思えます。その姿を、福音記者は「思いめぐらすマリア」として描いているのではないでしょうか。

多くのカトリックの女学校では、マリアさまを女性のモデルとして掲げているのではないかと思われます。女性としてのみでなく、母親としての真の姿をマリアの中に発見したいものです。

生きる要にマリア様がいますか

世の子どもたちにとって、お母さんがホッとする要であるように、マリアさまも子どもであるわたしたちにとって、同じような安心して生きる要としての存在になっているのでしょうか。子を心配しない親はいないでしょう。ましてや母親は、・・。

イエスさまはマリア様がいたからこそ、ご自分のやるべき仕事に熱中できたことでしょう。何をするにしても「安心・安らぎ」の後ろ盾になっていたのではないでしょうか。だからこそ、世の子どもがお母さんに「おねだり」するように、わたしたちもマリアさまに「おねだり」していいのではないでしょうか。

今日の祝日は、親子のかかわりを振り返り、「安心感」を提供しあえる家族を目指す一年の始まりにしたいですね。

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