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年間第21主日:信仰とは納得できなくても己を委ねきる神への信頼

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年間第21主日(B年)の説教=ヨハネ6.60~69

2012年8月26日   

主との出会い

4年に一度の祭典、オリンピックが終わりました。期待通りの活躍をなさった選手もいれば、惜しかった人もいました。競技に参加することに意義がある、とはいっても、選手のみなさんにしてみれば、ひょっとすれば、一回きりかもしれないオリンピックの場で、いい結果を残したいと思うのはごく自然の思いであろうと思います。われわれ国民も期待してしまいます。そして応援するのです。

今回は団体でのメダルが8個あったということです。これまでで最多であるということでした。選手のインタビューでも、仲間の応援を力にして、とか、最高の仲間とプレーできたことが、最後に、みんなで一緒に笑えたのがいい思い出になった、とか、自分ひとりじゃなく、ともにグランドに、プールに、競技場に一緒にいてくれた人への感謝のことばが多かったような気がします。

要は、「物」ではなく「者」との信頼関係が大きかったといえます。その関係から生まれるものが本来の「信頼」でしょう。つまり、相手の、仲間のすべてがわかっていなくても、納得していなくても、己をゆだねきってしまおうとする思いが強くなっていきます。その相手が神の場合、信仰となります。

今回のオリンピックでは、長年付き合ってきた仲間同士のかかわりから生まれてきた人格対人格の出会いが、その根底にあったのではないかと思います。安心感が生まれるのです。体の調子も良くなるというものです。

イエスさまと弟子たちの関係も、弟子たちが「イエス」という一人の人との出会いから発生し、イエスさまに感動し、ひきつけられていったのでした。ここに真実の「信仰」の姿があります。イエスさまの「あなたたちも去ろうとするのか」という質問に対して、ペトロは答えます。「主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命のことばを有しておられます」と。

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ここで注目したいのは、群衆がつまずいてしまったイエスさまの「ことば」に対してより、イエスさまご自身に向かってのペトロのことばです。イエスさまご自身の人格に向かっています。これが本来の「信仰」のありようであるといえます。

日常同じような人との付き合いをわたしたちは実践しています。神さまとなるとなぜかぎこちなくなります。なぜ、…?

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