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年間第28主日:神とのより真実な交わりと出会いに向けられますように

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年間第28主日(A年)の聖書⇒2026/10/11

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第28主日(A年)の説教=マタイ22・1~14

2026年10月11日

今週もまた、むごいニュースを目にしてしまいました。どうしてこうなるのでしょうか。人の命が、あまりにも安易に見られ、こう言ってはいけないですが、「人間」の品格が失われていくような気がして、実に悲しいですね。

“出産直後の子 計二人殺害・7月と昨年6月” の見出し、なんとも言えない出来事です。

「自身が出産したばかりの男児二人を殺害し、遺体を捨てたとして、福岡県警は5日、同県大川市一木、派遣型風俗店従業員梅崎三明(みあ)容疑者(29歳)を2人に対する殺人、死体遺棄の両容疑で逮捕したと発表した。容疑をおおむね認め、『(同居の)母親に見つかりたくなかった』と話している。

発表によると、梅崎容疑者は7月25日、自宅で出産したばかりの男児の首を両太ももで絞めて殺害し、遺体を押し入れに隠したとして8月に逮捕され、殺人と死体遺棄罪で起訴された。

さらに県警は5日、昨年6月中旬ごろに自宅で出産直後の男児の胸付近を両太ももで挟んで殺害し、近くの用水路に捨てた疑いで再逮捕した。司法解剖の結果、いずれも窒息死だった。

梅崎容疑者は、7月25日夜、出産後に動けなくなり、母親が119番して搬送された。病院から「子宮内に胎児がいない」との通報を受けた県警が自宅を捜索して遺体を発見。DNA型鑑定で昨年6月に同市新田の水路わきで見つかった男児とも親子関係があると判明した。

男児二人の父親は別々とみられるが特定に至っておらず、梅崎容疑者の母親は出産に気づいていなかったとみている。」(讀賣新聞西部版2026年10月6日朝刊)

わたしたち周りにいる者から見ると、なんともむごい、悲しい、惨めな出来事であろうと思ってしまいます。普通に考えてみた場合、こんなことは、通常では考えも及ばない内容ではないでしょうか。でも、容疑者本人にしてみると、精一杯の思いと考えから引き出された方策だったのでしょうか。それにしても、あまりにも寂しい結果です。

人間のすること、考えることに完璧はないです。だからといって、いい加減でもいいというわけでもないでしょう。どちらに転んだにしても、自らとった行動、言葉には責任が伴います。理不尽ないい加減な態度は赦されないでしょう。

既述のような大きな出来事、事件ではなくても、日常の卑近な出来事においても、同じく、いい加減さはゆるされないでしょう。日々の仕事の中で、小さなことで起きる約束事、日程上の行き違い等、相手がいる場合などは特に緊張感があります。この「緊張感」があるからこそ、仕事はうまく好転していくし、結果も良好な実りをもたらします。そして、こうしたことを、わたしたちは通常、自由意志をもって選択し、行動しています。だからこそ、すべての予定を前に進めていくことができています。

しかし、それがいつもうまくいくとは限りませんけど、・・・ね。

年間第28主日:天の国は、王子の婚宴に似ている。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない
年間第28主日(A年)の福音=マタイ22.1~14 〔そのとき、〕イエスは祭司長や民の長老たちにたとえを用いて語られた。 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

今日の福音書は、王子の婚宴に人々を招く王のたとえ話が語られています。

当時の習慣によると、宴会をする前にあらかじめ客を招いておき、さらに、当日宴会の時刻になったとき、招いた人々のところへしもべを遣わして、宴会が始まることを知らせるようになっていたということです。そして、その時刻が来てから断ることは招いた人に対して非常に失礼なこととされていました。イエスは当時の習慣を背景にしながら話をしておられます。

「人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。・・・家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(マタイ22・5~13)

イエスが、こうした極端なまでの話をなさるのはなぜなのか。それは、ユダヤ教指導者たちとの対立が、激しくなっていったことがあります。王の招きを拒み、使いの僕たちを殺す人々の姿や、また王の報復する姿が出てくるのもそうした状況のためだと思われます。

このたとえ話の一つの大きな特徴は、人々の理不尽な残酷さです。断るにしても、使いで知らせに来たしもべたちを無視したり、ましてや撃ち殺したりするとは、・・。どのような気持ちで王の招きを断ったのか、詳しくは記されていませんが、現実の生活にのめり込み、畑に、商売にと生活に追われていたのでしょう。

今に生きるわたしたちだって、同じような境遇に置かれているのではないでしょうか。でも、婚礼に集まった人々と同じように、教会から追い出されることはありません。が、「婚礼の礼服」を着てない人は外の闇に追い出されてしまいます。

神は一人ひとりに声をかけ、準備が整った宴会の席に招いてくれます。復活したイエスがもたらした救いに招かれたことを知ったわたしたちは、その招きに対する感謝と、それにふさわしく生きたいと望む悔い改めと希望を「婚礼の衣服」として身にまといます。「教会」とはそのような人々が集まり祝うための宴の場です。

わたしたちは弱く、醜い残酷な存在かもしれませんが、神はイエスを遣わし、わたしたち一人ひとり救って(招いて)くれたのです。

神とのより真実な交わりと出会いに向けられたものとなりますように、・・・。

 

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