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年間第32主日:環境の変化の真ん中に、神のみ心を見る人、見ない人とは

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年間第32主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第32主日(B年)の説教=マルコ12・38~44

2024年11月10日

目覚ましい科学の進歩により、人が「生きる」ためにひたすら「便利さ」「簡易さ」等を追求したあまり、人間自身の好奇心、能力、感性が鈍ってきたのではないか、退化してきたのではないかとさえ思ったりします。要するに、人間そのものの、物事に対する探究心、挑戦心がその成長をやめ、休止状態に陥ってしまったのではないでしょうか。だからこそ、人間味あふれる行き届いた対応、おもてなしが、温かないたわり合いが減退してきたような気がしています。それにつれて、殺伐とした、とげとげしい交わりが増え、いろんなところにその影響が及んでいるような、・・。人間味あるおもてなしは、さらなるコミュニケーションの輪を広げるために、深めるために大事なエネルギー、原動力になってくるのですが、・・。

現代人は、みすみすその大きなエネルギー源を捨てようとしているのではないでしょうか。人間特有の温かさ、やさしさ、たくさんの配慮されたおもてなしが、かかわりが、現代では程遠い、彼方に置き忘れてしまった貴重なものになってしまったような感じがしています。

人間関係の、交わりの潤滑油でありエネルギーであった「おもてなし」が、なくなってきたからこそ、そのように感じていますが、・・、一人ひとりの成長も、ままならず焦るばかりです。そして、挙句の果てにイライラしたり、自分でも、思わずとんでもないことをしでかしたりとか、成長しあうよりも、いつの間にか責め合ったり、なじり合ったりと、自分でも望んでもいない言動に走ってしまっているのです。情けない姿ですよね。

そういえば、最近の報道の中には、人間性の育ちの欠如が、その原因ではないかと感じられる事件事故が、余りにも多くなったとは思われませんか。報道の中身によっては、統計学的な事実を基に、事故事件の流れを紹介しています。まさに、人間の「未熟度」換言すれば「幼稚さ」が暴露されているような気がしてならないのです。

その上、その問題を検討する側の人も、ネガティブな面だけを問題にし、ポジティブな面を見ようともしない傾向がありはしないのか、と思わせるような対応が多いですよね。特に子どもたちへの「いじめ」となると、学校側は隠ぺい工作をしているような印象を与えてしまっています。いつの時代の問題に対しても同じような反応です。どうしてこうも似たような、同じような対応ができるんでしょうかと思ってしまいます。

昨年度、ついに小中学生の不登校が、初めて30万人を超え、全国で34万6482人に上り、過去最多となりました。中でも、いじめは、小中高校などが認知した件数は73万2568件で、生命や心身への被害や長期欠席などを含む「重大事態」は1306件と、いずれも過去最高です。(讀賣新聞西部本社2024年11月1日朝刊)

上記のように数字がならべられてくると、いじめの問題は解決に向かうどころか、むしろ増加し、さらには発展しているのではないかと危惧してしまいます。根本的な問題は発見できないままに、むしろ、そこにはたどり着こうという努力もしないで、眼前の具体的な事件だけの解決で、満足しているのではないでしょうか。少なくとも「重大事態」が我が身に降りかからないようにしてくれ、ということで精いっぱい、その対応に明け暮れしているのでは、・・。

鹿児島県内の不登校生も最多の5432人に上っています。その理由はと言えば、いずれの校種も「学校生活に対してやる気がでない等」が3割を占め最多です。このほか、「生活リズムの不調」「不安・抑うつ」などが挙げられています。(南日本新聞2024年11月1日朝刊)こうした理由を確認したとしても、それに対する施策はありません。むしろ、増え続ける要因について、鹿児島県教育委員会は新型コロナウイルス禍による登校意欲の低下などを挙げ「極めて重大な課題」との認識を示しています。

年間第32主日:貧しいやもめは、賽銭箱にだれよりもたくさん入れた
年間第32主日(B年)の聖書=マルコ12・38~44 〔そのとき、〕イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

問題の分析をし、認識を示したとはいえ「いじめ」問題は解決はしていないのです。分析結果を後世に残すことが、問題解決の目的の一つになってはいないのかな。そうも感じてしまいます。「いじめ」のガイドライン、法律に問題の解決を置くのではなく、その人(被害者)の中に置くべきです。物と人とでは比較の対象にはなれません。

きょうの福音の中で、イエスは一人のやもめに注目させます。奉納金の重みの問題です。イエスは言います。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と。

このやもめの行いの裏付けとなる彼女の心の内をのぞいてみると、次のようなメッセージが見えます。「世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために現れ、『救いをもたらすために現れてくださる』キリストを知っている。」

やもめは「この地上での生活」とは別に、いっそう意味を持った命がすでに始まっていると知っているからでした。だから、「生活費を全部入れた」のです。この命に気づかずにいれば、自分のために財貨を残していたことでしょう。当然の話です。

「やもめ」も「いじめられている人」も、自らの人生の表にすら立つことができない人たちです。立ちたくてもそうさせてもらえない、なんとも歯がゆい歩みを強いられています。それは、人間の視点に立った時はそうですが、神の視点に立つと違うよ、ということを今日の福音はわたしたちに勧めています。一人ひとりは、神に託された役割を内に秘めている「わたし」です。

つまり、「神が与えてくださるいのち」に目を向ける時に、今の自分の言動が間違っているかいないかが見えてくるでしょう。やもめには見えていたのです。

今に生きているわたしたちはどうでしょう。

 

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