年間第16主日(B年)の説教=マルコ6・30~34
2024年7月21日
今や、国境を越えて世界に誇る日本の「マンガ」。何があって、海外までにその人気度がここまで高まってきたのか。嬉しいことながら、わたしには不思議だなと思ってしまいます。それも年齢、性別関係なく、広く多くの方に親しまれているのです。
その一つの理由としてあげられるかもしれないのは、日本のマンガファンだというアメリカ人のステファン・ブラッシュさん(59歳)の発言に感じ取ることができるのかなと思いました。彼は話しています。「日本語は分からなくても、絵が映画のように立体的で伝わるものがあります。主人公の成長を描く深い内容が多いので大人も楽しめるのが魅力です」と。(南日本新聞2024年7月12日朝刊)
日本のマンガの原点ともいわれているのは、「平安時代から鎌倉時代にかけて描かれたとされ、京都高山寺に伝わる国宝絵巻『鳥獣人物戯画』です。カエルやウサギなどの動物が、墨一色の線で人間のように生き生きとユーモラスに描かれていて『昔から日本人がマンガの表現方法に親しんできたことが読み取れます』」とマンガ教室「daichi」の代表・樹山大地(きやまだいち)さんは言われます。
「現在、日本のマンガは「MANGA」と呼ばれ、世界でもそのまま通じる言葉となっています。・・・3月に亡くなった鳥山明さんの代表作『ドラゴンボール』はさまざまな外国語に翻訳され、累計発行部数は2億部を超えています」。(同上紙)
マンガを創作、描く人がいて、そのお陰を受けて愛読者が生まれ、双方が喜びと活力を受け、そして、それぞれが次なるステージへと歩を進めていきます。創作者は新たな挑戦を試み、新たな発想をもって新たなマンガを作り、読者に心身の憩いの場を提供してくれます。読者は、ひと時のくつろぎの場を求めてマンガを手にし、新たな活力を感じつつ憩いの時間を享受します。いわゆる、創作者にとっては、もとより仕事そのものが「自分の時、場」でありますが、漫画ファンの読者にとっては、それぞれが、読書する「憩いの時」を、「わたしの場、時」として、生活の一部に取り入れているのです。
わたしたちは経験上、日常の労働奉仕から抜け出し、心身を休ませる憩いの時、安らぎを感じる「自分の時、場」を求めています。時には好まなくても、体自身が、「休み」を求めて悲鳴を上げてしまうことだってあります。それが現代では日増しに深刻さを増しています。しかし、仕事に一生懸命のあまり、そのことに気づかずやり過ごしてしまうこと、または、やむなく何かの都合で回避できない時、ことが発生してしまうことがあるのです。その結果、気づいた時には大変な心身の疲弊状態に陥ってしまうことがしばしば起きています。近年多いのが、そのことによって自らの命を絶ってしまう人たちです。
置かれた状況は異なりますが、今日の福音で弟子たちに言われているイエスの言葉は、しっかりと「休みなさい」ということです。それも「人里離れたところで」という具体的な場所まで支持なさいます。それは、弟子たちの置かれた状況から、彼らを守りたかったからでしょう。つまり、宣教から帰ってきた弟子たちの周りには、多くの人たちが押し寄せてきていたからです。つまり、彼らは宣教の成果が良好であったことを受けて、意気揚々と帰ってきたのでした。この時点では、民衆からの大きな抵抗はまだなかったのです。むしろその逆で、勢いよくみ言葉が広がっていきました。当時置かれていた民衆の状況は、失望感にみちた目標のない生き方を強いられていたからです。そこに来て、告げられた弟子たちの言葉は、救いの喜びの灯をその心にともすに十分なメッセージだったのです。それに皆が惹かれ、近づいて行ったのです。そこで弟子たちは、自分たちの宣教活動の成功に酔いしれて、イエスのもとに帰ってきました。
「人里離れたところで休みなさい」というイエスの指示は何を意味するのでしょうか。何か意図があるような気がします。
「人里離れたところ」とは、イエス自らが好んでいかれたところです。イエス自身が宣教を始めた時に、朝早くまだ暗いうちに一人で「人里離れたところ」へ向かわれました。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1章35節)とある通りです。そこは、イエスにとって神との交わりを確かにする場所でした。そこにイエスの弟子たちが向かうということは、それは、神の国の宣教を担う力を受けて、イエスと同じように、そして、イエスとともに働き続けるためであったのです。
イエスは「人里離れたところで」父なる神の神秘に十分にひたるのです。没頭するのです。日常の現実の社会のすべてが、「人里離れたところ」では、思いの中から消えてしまいます。そして、神との出会いがイエスを神の人にしていくのです。このような状態に弟子たちを招き、勧めるのです。そして、弟子たちの任務が、祈りに裏付けられた使徒職である限り、その任務は確たるものになっていきます。それは、人の知恵ではなく、神の知恵、神の愛を人々に伝え続けるために、祈りが必要、大切にされなければいけないということです。「人里離れたところ」とはこのようなことを確認し、そうすることができる場所なのです。
誰でもマンガを手にして読んでいる時というのは、日頃の喧騒から離れ、我を見つめるいいひと時ではないのかなと思います。そうした「時、場所」を持ち続け、探し続けることが、いつしかわたしたちを「宣教師」としてみ言葉の伝達者に成長させてくれる大事なことに繋がるように思います。
日常が無駄になることは決してない。どこかで必ず繋がっているものです。
コメント