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復活節第3主日:弟子たちを「使徒」にしたもの、それはイエスに出会うこと

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復活節第3主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

復活節第3主日(B年)の説教=ルカ24・35~48

2024年4月14日

鹿児島市清水小学校5年生の田平麻友さんが、次のような投稿をしています。(南日本新聞2024年4月8日朝刊)

「3月11日の道徳の時間に『かぜのでんわ』というお話を読みました。実際に13年前の東日本大震災の後、岩手県大つち町に置かれた風の電話がモデルだそうです。電話はどこにもつながっていませんが、会えなくなった人の思いを届けられるといわれています。

私はどうしてつながらない電話をみんな使いたがるのだろうと、不思議でした。でも、もしも私の大切な人がなくなったら、すぐに風の電話に行くと思いました。もちろん、なくなった人の声が返ってくるとは思いません。電話をかけるのは自己満足かもしれません。でも、自分の大切な人といつお別れするか分からない。だから、いつどんなお別れがきてもいいように、大切に過ごしていこうと学習を通じて思いました。・・・ふだんからひなんについて考え、なくなった方々の思いも受け止めて生きたいです。」

小学校5年生の投稿内容は、日常から、情報の流れをいかに注意深くキャッチすることが大事であるかを感じさせるものになりました。投稿者が小学生であるということも、わたしにとっては驚きです。この年齢から「良き死、別れ」を覚え、感じてしまうということは、わたし自身を振り返ってみたときありません。でも、言われていたことはあります。何も感じていなかったのです。

今は情報化時代。速くて正確な情報が入手できます。中には偽情報もありはしますが、そこは賢明な判断が、処理の仕方が求められます。とはいっても、これだけの情報を賢明に見分けるには、かなりの能力が求められるような気がします。それも、人によって受け止めかたが異なってくると、見分けのやり方、情報の処理の仕方に、かなりの違いが出てくるような気がします。

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ある人には愚かな情報であり、他の人には躓きの原因になり、また、他の人には無意味な無味乾燥なものであったりします、同じ情報が。先の小学校5年生の原稿に対して、思う気持ちにもいろいろな情があり得ます。原稿を書いた本人、田平麻友さんが自分の感想、思い入れを正直に表現したものであることは確かでしょう。その上に立って読み直しをすると、また違ったものを感じるのではないでしょうか。情報を発信した人の年齢、立場を、判断するときに考慮に入れると、新たな感じが、人の心が見えてくるのでは、・・。

人間の世界では、いつも正確な、正当な情報が流され、受け取れるとは限りません。また、受ける人のその時の気持ちの在り方によっても、大きく変わってきます。

今日の福音において、イエスの復活は、弟子たちにでさえ、怯えられ、疑いを抱かれていました。その弟子たちを前に、イエスは自分が幽霊ではないことを示すためにいろいろなことをして見せます。まず、手と足を見せます。それでも不思議がっているので、今度は、焼いた魚を彼らの前で食べます。これで、幽霊ではないことが分かったのですが、つまり、復活したイエスであるということです。しかしこのままでは、あくまでも弟子たちだけの喜びのイエスの復活になってしまいます。

いわゆる、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」(Ⅰコリントの信徒への手紙1章23節)で終ってしまいます。つまり、人間の世界のごく限られた常識内の出来事で終わってしまいます。ところが、メシアの本来の役割は、内輪の人への対応だけではあまりにも狭い、神のなさり方としてはあり得ないことです。つまり「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1章24節)という役割であって、広がりがあり、ダイナミックです。

イエスの復活は、内輪の人々だけではなく、全世界の人々にとってどのような意味合いを持った出来事なのかを悟らなければいけないでしょう。つまりは、主の復活はすべての人々のためなのです。このことを分かるためにパウロはいっています。「神に召される」ことなのです、と。その神の召し方について、さらに、言及しています。

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1章25節~31節)と。

イエスは直接弟子たちに言います。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。」つまり、イエスご自身が「彼らの心の目を開いて」メシアについて言われている聖書を悟らせてくださったのです。

十字架にかかったメシアを理解するためには、神によって召される、呼ばれる必要があるということです。こうしてイエス(メシア)を証しする人が増え、共同体が大きくなっていきました。

学習するということは、神に呼ばれる状態を自分の中につくっていくことにつながるんですね。5年生の田平麻友さんの中にも、新たな(親しい人との関係のあり方に気づく)自分をつくり始めることでしょう。新たな人間関係に目覚める自分になっていきます。

今日の福音では、イエスの弟子は「使徒」となっていったのです。新たな生活に目覚めつつ。

 

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