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受難の主日:「今」を大事に。「他者」を大事に。生きる本当の意味が訴える

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受難の主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

受難の主日/枝の主日(B年)の説教=マルコ15・1~39

2024年3月24日

いま日本国内を大いに騒がせているのが、自民党派閥の「政治資金パーティー裏金事件」ではないでしょうか。「この事件をめぐる一連の報道からは、分別が欠けている政治家が少なくないことと、金銭感覚が世離れしていることが見て取れる」とおっしゃるのは片山善博氏(大正大教授・地域構想研究所長)(南日本新聞2024年3月17日朝刊)。

片山さんの意見を掲載してみます。

「パーティー券販売ノルマの超過分をキックバック(還流)し、それを政治資金収支報告書に記載していなかった政治家が大勢いる。税務になぞらえると立派な収入の除外であり、簿外資金である。不記載がばれたら慌てて報告書を訂正し、すべて政治活動に使ったから問題ないという。最初から素直に記載しておけばよかったのではないか。

そうただされると、派閥から記載しないようにと言われたのでと、しれっとしている。悪いことをしてとがめられ、「だって、誰々ちゃんがやってもいいって言ったんだもん」という類でそんな言い訳は子どもでも通用しないのがわからないのか。…政治家はよく『説明責任を果たす』との常とう句を口にし、国会の政治倫理審査会への出席でそれを果たしたと考えているようだ。それは勘違いも甚だしい。」

国民や企業は税務署に説明責任を果たすために、こまめに領収書を保管しています。かつて税務署長を務めたかたの願いとして提案しています。「政党の資金には政党交付金が入っている。原資は税であり国民の税がこんなつかわれかたをされていいはずがない。・・・政治活動費について領収書などが不要とする取り扱いを今後も続けるなら、少なくともその配分を受けた個人の所得とみなして課税対象とみなすべきである。」と。一言で言えば、「納税者目線のルールを」ということになるでしょう。

一般によいことをして非難されることはないでしょう。彼ら政治家には自らの評価基準があって、庶民のわたしたちとはどこかで違うんでしょうね。一般的によいことをした人を揶揄するときって、うらやましかったり、それゆえに困らしてあげようと思ってしまったり、場合によっては嫉妬心もあるのでしょうか。

いまの「裏金」問題を思ってみますと、わたしたち有権者においても反省しなければいけないところがあるのではないでしょうか。わたしたちにもいただいた「清き一票」をいかなる気持ちで使っていますか、ということです。妥協、営利目的、その他いろいろなしがらみの中で、投票所に行くのではないでしょうか。昔の「清き一票」という言葉が懐かしく感じます。この言葉は現代のわたしたちにとっては完全に「死語」ですね。今、選挙投票権を持っている人の中で、まず使ったこともないでしょうし、きいたこともないのではないでしょうか。このようなことを思うこと自体、多分大人ではないなと言われたり、成人してないよなとか、社会をよく知らん人だよなとか言って、多くの人々に非難されたりするのでしょう。

受難の主日:イエスは大声を出して息を引き取った。すると、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた
受難の主日/枝の主日(B年)の聖書=マルコ15・1~39 受難の朗読は長いので、ミサでは3人で分担して行われます。

多くの場合、非難されたりする人は落ち込んだり、周りから外されたり、とても生活しにくい環境に置かれてしまいます。こんなにして「人として」の仲間はずれが生じてくるんですね。それでも強く生きていける人はいいですが、大概の場合は、どうにかなってしまいます。本来の人間性がなくなってしまいます。人は人のためになってこそ、自分を輝かすことができます。自分を輝かすことを優先している間は、輝くものではありません。つまり、自分で満足いく生き方ができないということです。人のためになってこそ、その人の価値は大きくなっていきます。外に広く輝いていきます。

そうした生き方の代表者がイエス・キリストです。今日の福音書はマルコによる受難記です。彼の記述の中で注目を引くのが最後の方です。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。

百人隊長であった彼が言った言葉です。信仰告白だし、宣言ですね。現実に自分の周りで起きる出来事の中に、神の関与、神の助け、神の動き、神の配慮、その結果、「わたし」という人間が動き、神の思いと同じ動きができればこの上ない「証し」になっていきます。百人隊長は、そのことを自然にできたのですね。したがって「証し」ということも、あえて意識してやるものではないということでしょうね。

イエス自身、ある意味淡々とじぶんの役割を果たしていきます。その最後が、今日の福音書に出てくる十字架刑でした。この間、いろいろな噂をたてられながらも、一向に気にすることなく、託されたことだけに注力と、思いと、行動を添えていたのかなと感じさせます。それでも、わたしたちも体験しているように、外には何もなかったかのように見えても、その人の内側では相当の葛藤、忍耐、希望の心が、思いがうごめいているのではないですか。イエスも同じだったと思います。その表れがゲッセマニの園でのイエスの祈る姿でしょう。イエスはいつも庶民の味方でした。

わたしたちも普段はそのような動きをしていますよね。でも。祈る内容の範囲が狭い。致し方がありません。弱いからです。しかし、悪い方向へと向かないように心すべきでしょう。

政治にかかわっている人々も、いい方向への常態化が進むといいのですが、・・。

でも大事なのは、イエスの普段の「淡々とした」小さな動きの中にこそ、真珠が光っています。それは、他者のために果たした役割の、いわば報酬です。

「わたし」もほしい。そのために、他者に役立つ「仕事」を探し出したいですね。

それは、今いただいている自分のいのちを精いっぱい生きることでしょう。

 

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