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四旬節第3主日:イエスとの出会いは「わたし」をさらに動かし、輝かせる

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四旬節第3主日(A年)の説教

四旬節第3主日(A年)の説教=ヨハネ4・5~42

2023年3月12日

通常は、まったくもって考えることはないのですが、敢えて意識してみますと、当たり前でしょう、と思ってしまうだけです。つまり、「自分の周りにはたくさんの人が一緒に生活している」ということです。ただそれだけのことです。当たり前じゃない、といわれればそうなのです。

「わたし」の周りには沢山の人がいる

子どもも書いています。鹿児島県の西野小学校(南種子町)4年生の小脇稀乃香さんが、弁護士の方から、実際にあったいじめの話を学校で聞いて作文を書いています。その中の一節です。

「私もこれからいろいろな人に出会います。話すときは一言一言を考えて、相手のきずつく言い方はしないように心がけたいです。そんな人たちがふえてくると、だんだんいじめも少なくなると思います。私が大人になるころには、いじめ問題のニュースが流れていないと良いです。ゼロじゃなくても、今よりかくじつにへっていれば、それで良いと思います」と。(南日本新聞2023年3月7日朝刊)

明らかに自分の周りに人がたくさんいることは当たり前のことなのです。だからいじめもあるのです。いろいろな問題が起きてきます。仲たがいがあったり、仲直りがあり、助け合いの輪が広がっていったりと、苦しいこともあれば、楽しい嬉しいこともあります。自分以外の人がいるからこそ、楽しい気分になれます。また、誰かのために役に立つ「わたし」になろうと思えるようになって、成長していきます。

でも、そういう人たちがいないとなればどうでしょう。考えてみたことがありますか。単純に考えても、「わたし」は「わたしらしく」なることなく、なんといっても自己発見ができないでしょう。そして、滅びてしまうのではないかと、・・。通常はそんなに思ってはいないのですが、他者の存在は「わたし」の存在にかなりの影響があるということです。基本的に人は人を必要としているということでしょう。そうでないと「人として」生きることができないとまで言えそうです。

ヒトはいつも互いに、影響し合うもの

しかし、場合によっては、自分の周りで関係するものは人ばかりではなく、「物」であったり「出来事」であったりします。とはいっても、それも何らかの形で人が絡んでいます。人がいることで表れてくる現象だからです。本の作者であったり、演劇の、ある物語であったりします。また、音楽であったり、趣味・娯楽から起こってくるさまざまな出来事があります。

あの2011年に起きた東日本大震災から12年です。未だに、大震災の後遺症で苦しんでおられる方はたくさんいらっしゃいます。また受けている被害の中身も、人によって様々です。中でも気になるのが風評被害です。福島県では原発事故のあと、放射性物質の検査結果が基準値を下回っているのに農産物や水産物が売れなくなる状況が続いているといいます。こうした原発事故による風評被害はいまだ払拭しきれずに関係者たちを悩ませ続けているようです。

全く話は違うんですが、今ここに漫画雑誌「週刊ヤングジャンプ」に連載されている人気漫画「キングダム」の作者、原泰久さんがいらっしゃいます。彼も自らの仕事に関して、影響を受けた一人です。彼は東日本大震災が起きた時、漫画の連載を続けて5年目だったそうです。震災時、東京で仕事をしていたそうですが、彼は「漫画を描いている場合か」という葛藤があったそうです。その時、師と仰ぐ漫画家井上雄彦さん(伊佐市出身)から「東北にも楽しみにしている人がいっぱいいる」と言われ、迷いが消えました。また、「被害者から『励みになります』という手紙をもらったことが自分にも励みになった」と振り返っています。(同上紙)

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結局は、「わたし」の周りには人がいるんです。「わたし」が出来事に影響されたとしても、たどり着くところは「人」です。だから、「その時その時の人」との出会いが、とても貴重なものになっているのはまぎれもない現実でしょう。

イエスとサマリアの女との出会いから

今日の福音書は、イエスとサマリアの女との出会いを報告しています。人と人との出会いがあれば、そこには何がしかの新たな動きに発展する力を得るのではないでしょうか。「出会い」というからには、しかもそれが「自然な出会い」であればそうなっていくのは必至です。人はどこかで「出会い」を求めているからです。何もしないで出会えるなんてことはないでしょう。動いているのです。今日のイエスもサマリアの女もそれぞれの目的を持って動いていました。その中の出会いです。しかも、サマリアの女にとっては、これまでになく安心できて、自分を心から受け止め理解してくれる人・イエスとの出会いだったのです。

出会いの始まりはイエスからの言葉かけでした。「水を飲ませてください」。これを直訳すると「わたしに飲むことを与えてください」という表現になるのだそうです。いきなり「水」とは言われなかったのです。女性は、イエスが喉の渇きをいやす水と「生きた水」とを区別して呼びかけている意味も分からないままに、皮肉を込めた文言で反応します。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と。

相手に輝きを与える”出会い”こそ大切

イエスが「生きた水」の話を持ち出したのにはわけがありました。彼女のこれまでの人生の歩みは穏やかなものではなかったのです。彼女自身の心の渇き、不毛なあきらめきった心を揺さぶって、心からのいのちを取り戻したかったのでしょう。彼女にとって、イエスとの出会いは恵みの時でした。そしてイエスに叫ぶのです。

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と。

日常の出会いは、自らを、相手を疲れさせるものではなく、輝きを与えてくれる出会いなのです。そうありたいと心掛け、お互い求めあっていきましょう。その奥に、わたしたちを支え、裏切ることのない輝きをくださるイエスが見えてきます。

 

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