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待降節第4主日:お言葉通りに!というマリアの奉献から救いはわたしにも

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待降節第4主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

待降節第4主日(B年)の説教=ルカ1・26~38

 

2020年12月20日

「認知症独り歩き体験会」の報道が気になりました。(南日本新聞2020年12月12日朝刊)

認知症になったつもりで独り歩きし、声掛けを受ける体験会が志布志市でありました。認知症への理解を深めようと市社会福祉協議会が開催したのです。

「認知症独り歩き体験会」の新聞記事を読んで

民生委員児童委員や見守り活動の協力員、志布志認知症を支える会、施設職員ら約40人が参加して5日に行われました。認知症のさまざまな症状を書いた紙を手に持ち、市健康ふれあいプラザの周囲を歩きました。沿道では認知症を支える会のメンバーらが声掛けし、丁寧に相談に乗る手本を示したり、あえて「忙しい」とあしらうなどの不適切な対応を示したりしていました。

民生委員児童委員の矢野由美子さん(56歳)は「声掛けの態度、まなざしで親身なってくれているのかどうかが分かった。突き放す言い方をされると、認知症の人もこれ以上話したくないだろうし、傷つくと感じた」と話しています。

いわゆる、人が人らしく生き抜くために、どうしても大切な、避けることができない要因になっている「他者とのかかわり」が、いかに大きいものであるかが分かります。人がそこにいるということは、誰かのために必要とされているからです。能力のある優秀な方なのかどうかは不問です。その優劣は必要ないのです。そこに「いること」が大事なのです。

とはいっても、人間のすることには限界があります。したがって、良かれと思って考え、行動したことが、万人に受け入れられるかといえば、必ずしもそうだとはかぎりません。一人ひとりのニーズが異なるからです。だからこそ、ある人には励ましの言葉、行動になっても、他の人には、無味乾燥な言動になってしまいます。それぞれが違うということは、一人ひとりの存在が大きいということです。同時に、尊いことでもあります。

それだけに、人と人とのつながりのありようが、お互いの言動にも影響してくることが多々あることは、経験上、みなが知るところではないかと思います。すなわち、親密な関係だと、多少のトラブルは大ごとにはなりませんが、面識のない関係だと、ちょっとした言葉の表現、語調、顔の表情ひとつで誤解を招いてしまうことがあります。

ボランティアを行う人の心の奥にあるものとは

特に、上述した「認知症独り歩き体験」では、普通だと、見ず知らずの方に声をかけられるケースがほとんどだろうと思います。その時の言葉の表現、表情は微妙に影響してきます。せっかく援助の手をさしのべようとしても、それが逆の結果を招いてしまっては、双方にとって良くないですよね。後味の悪いことになってしまいます。

一般に言う善行とは、どのような心から発せられてくることなんでしょうか。どのような動機がその背景にあるのでしょうか。自らの名誉のためでしょうか。自己宣伝のためでしょうか。売名行為なんでしょうか。そのどれも当たらないでしょう。

純粋に、自分の行いがその人のためになるのであれば、・・・の思いで、ボランティアに参加するのではないでしょうか。さらにその奥にあるのは、同じ人間として共鳴し合う「何か」があるのです。その「何か」がボランティアへの引力になっているのです。それが何かといえば、神からの「恵み」というものなのです。当の本人も気づかないうちに蓄積された賜物です。「賜物」とは、特別な贈り物を受けたとか、特殊なものを与えられた、という風にとらえると、「恵み」の豊かさを減少させてしまいます。

今日の福音書では、そのことが述べられています。

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クリスマスを前にした最後の日曜日です。やっと、マリアが登場します。イスラエルの民が待ち望んでいたもの、みなが祈り求めていたものを、まず受けとられたのがマリアでした。神の恵みの訪れを知らされた天使のお告げの場面がそれです。

天使ガブリエルは「あなたは、主のみ前に恵みを得たのです」と告げます。ここで言われている「恵み」は、贈り物という「もの」にアクセントを置くよりも、お互いの「かかわり」のありかたに重きを置くべきなのではないでしょうか。

神の方が、いつも、私たちを「忖度」している

現代でもそうですが、当時の人々は「とくべつに目をかけられること」「とくべつな好意を受けること」の中に、神の恵みを感じていました。逆に言いますと、「神がまなざしを向ける」「神が顔を向ける」という表現の中に、神の恵みを見ていたのです。最近のいいかたを借りますと、「忖度する」ということでしょうか。

つまり、このような言い方がゆるされるなら、神のほうから、いつも、わたしたちに「忖度」してくださっているということです。神自らが、わたしたちと「かかわり」を持とうとしてくださっています。誰に対してするかは本人(神)の自由です。ましてや、受けるほう(人間)は、自分にはそうしていただく価値もなければ、資格もないと思っていればいるほどに、神・人からの温かい言動を「恵み」として受け取るものです。そうではないでしょうか。そして、目をかけてくれる人が力強ければ力強いほど、素晴らしいものになります。その力強さに守られることになるからです。

神のみ前に恵みを得たマリア、それは、神の大きなまなざしに包まれ、守られているということになります。神はマリアにそのまなざしを向け、マリアを通して世界の救いを思い、悲しむ人々、傷ついた人々の上に広げていこうと計画されたのです。

「お言葉通り、この身になりますように」というマリアの奉献により、神の愛、救いは全世界のものになったのです。

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