復活節第2主日(C年)の説教=ヨハネ20・19~31
2019年4月28日
挫折や絶望感は向上心がある人こそ体験
わたしたちの日常は、誰に言われるまでもなく、欺瞞、裏切り、悪い噂話等の真っただ中に生きざるを得ない現実にあります。何も否定的なことばかりではありませんが、印象的なこと、記憶に残ることといえば、大抵が否定的な体験になってしまいがちです。だからこそ、悩みくるしみが絶えないのです。時には挫折感の大きさに打ちひしがれて、絶望のどん底に追いやられるときだってないとはいえません。
しかし、別な言い方があるとすれば、それだけ上を目指そうとする向上心で一杯であるともいえないでしょうか。そうした自分を発見し、目覚めるために、体験からわかることですが、何かのきっかけが求められます。
静かな熱血漢・トマの言動を見てみると
今日の福音に使徒トマが出てきます。彼は12使徒の中では目立たない控えめな存在ですが、内心に熱い何かを感じさせるものをもっている人でもあります。いわゆる、静かな「熱血漢」とでもいえるでしょうか。「わたしたちも行って、主とともに死のう」(ヨハネ11章16節)という発言は、イエスのエルサレム入城を前にした言葉です。他の弟子たちがイエスを引き留めるなか、トマが発した言葉でした。それだけイエスの決意は固く、止めようがないと感じたのではないでしょうか。はたして、イエスの真のこころを受けとめたうえでの言葉だったのでしょうか。
格好よく啖呵を切ったが、実行できず
一度は「主とともに死のう」と元気よく、格好よく啖呵を切ったトマでしたが、現に、いざその瞬間に立ちいたったときには、他の使徒も含め、全員でイエスを捨てて逃げ去ったのでした。永遠の救い主であると信じられていたイエスが、その死ですべてが終わってしまうというのであれば、潔く死んでしまったほうが良いと思うのはトマだけだったのでしょうか。しかし、格好よさだけで生きてはいられない人間の弱さ、現実に気づくと、人は誰でも落ち込んでしまいます。トマもそうでした。その落ち込み方がひどかったのです。他の弟子たちから離れて一人静かに時を過ごしていました。イエスを死に追いやったこの世の権力におびえていたのです。
自分への嫌悪感と絶望感に陥っていた
その上に、格好いいことを口にしてしまった自分に嫌悪感を抱き、あきらめと絶望感の中にあったのではないでしょうか。一人ぼっちで落ち込んでいく、これは今のわたしたちの日常でもあり得ることです。このような時、わたしたちはどう動いているでしょうか。何を思っているのでしょうか。どこを見ているのでしょうか。何を求めているのでしょうか。
マザー・テレサによる「なすべきこと」
聖マザー・テレサは言います。
「人々は、あなたがたのタレントを求めているのではなく、あなたがたの中に神さまを求めているのです。人々を神さまのもとへ導きなさい、決して自分たちのもとへではなく。もし、あなたがたが、この人々を神さまのもとへ導かないのなら、あなたがたは自分自身を追及していることになり、自分勝手にわが身を愛することになります。でも、そうではないはずです。この人たちにイエスさまを思い起こさせることが、あなた方の仕事なのですから。」(「マザー・テレサ100の言葉」より)
各々に託された役割に気付くことが大事
そうです。わたしたちはおのおのに託された役割に気づき、目覚めることが求められているのではないですか。それは同時に、他者の役割の何たるかに気づき、目覚め、その理解に達することでもあります。一人ひとりが存在している理由と価値がそこにあるからです。無駄な存在者は誰一人いないということです。
トマがそのことに気づかされ、目覚めさせられたのが、復活したイエスに会い、生きたイエスを目の当たりにしたときです。この時、実にトマは、イエスこそわたしたちの救いであるということを確信し、実体験をしたのです。彼の心が開かれ、イエスの真心が分かったのでした。そして、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰宣言をすることになったのです。さらに「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである」という言葉を、わたしたちに与えてくださることになったのでした。直接にイエスに会えない今のわたしたちにとっては、この上もない招きの言葉です。求められていることは、その言葉に「わたし」が自分の心を開き、受け止めることができるかということです。
トマの出来事は後世の人々の救いの確信
使徒トマは、落ち込みが激しかっただけに、回復するのも究極の瞬間、復活したイエスに出会う時まで待たなければなりませんでした。それほどに疑い深くなっていたのです。でも、しっかりと立ち直りました。「信じる者」に変えられたのでした。まさに「復活」です。神がなさった業です。
さらに、トマの救いは、わたしたちの救いを確信させる出来事になりました。また、懐疑的で、絶望のどん底にある人々に、前を見て、元気に生きることができるよ、というメッセージにもなりました。いつの時か、それは実現するのです。「わたし」の復活です。わたしたち一人ひとりを心にかけてくれる神の業です。
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