待降節第3主日(C年)の説教=ルカ3・10~18
2018年12月16日
「ジュニアプレス」という新聞のコーナーに「子ども食堂」のことが掲載されていました。(讀賣新聞大阪本社、2018年12月8日夕刊)この日のジュニア記者は、中学生と高校生の生徒さんでした。
最初の「子ども食堂」を伝える新聞記事から
貧困な家庭の子どもたちに温かい食事を提供する「子ども食堂」。その最初の店とされる「だんだんワンコイン子ども食堂」(東京都大田区)を始めた近藤博子代表(59歳)と、その支援にあたる法政大の湯浅誠教授(49歳)を訪ね、お話をうかがった内容が記されています。
近藤さんは2012年、経営する八百屋の店舗で子ども食堂を始めました。「だんだん」は、出身地の島根県の方言で「ありがとう」を意味する言葉だそうです。子ども食堂のアイディアは、その2年前、地元の小学校の副校長から、病気がちな母と2人で暮らす子の食事がバナナ一本だけのこともあるという話を聞いたのがきっかけだったそうです。「今の日本で起きているとは信じられず、その子の後ろ姿を想像したら切なくなって。見切り発車でもやってみようと思いました」と当時を振り返ります。
運営について、最初は大変でしたが、次第に食材や資金の寄付が集まるようになり、今では、貧困の家庭の子よりも、普段は一人でご飯を食べる子、親子連れなどが多く、一回に50人近くが訪れるそうです。
子どもはゲーセンのコインでの支払いもOK!
面白いのは、こどもは1食を「1コイン」で食べられるところです。1円玉でも外国の硬貨でも、ゲームセンターのコインでも構わないそうです。「無料にしてもいいけど、子どもたちが『自分たちは施しを受けている』と考えてしまわないように」という配慮から実施されたことだったのです。因みに大人は500円だそうです。
国内の子ども食堂は、2013年に「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が成立してからどんどん増え、今年3月の集計で約2,300軒以上ある都道府県もあるそうです。それらを支援する団体「こども食堂安心・安全向上委員会」(滋賀県草津市)の代表を務めるのが湯浅誠さんです。
店の数はずいぶん増えてきましたが、湯浅さんは「もっと増え、みんなが意識しないぐらいの当たり前の存在になることが理想」といいつつ、反対に「なくなるのが理想」といわれます。つまり、近所で互いの子を助け合うようになれば、子ども食堂もいらなくなるからだ、といわれるのです。目指すゴールは一緒なのだということでしょう。
食堂増加は助け合いへの関心が高まった証拠
ジュニア記者たちは結んでいます。「こども食堂が増えているのは、地域での助け合いが重要だと思う人が増えてきた証拠なのでは。わたしたちにもできることはないか考えていきたい」と。
つまりは、人が人らしく生きるという普段の日々のあり方が、正常化されていくことに関心が高まってきているということでしょうか。日常性を保つことがいかに大変で、難しいことなのかがうかがえます。だからこそ、特別なことをして援助するという大きなことはできなくても、むしろ、日々の身近なところでのかかわりがいかに大事で、効果的な支えになれるかが分かります。
「わたしたちはどうすればいいのでしょうか」。ヨハネのことばに対して、民衆は心ゆさぶられました。ヨハネは救いを告げるという点で、「救い主」に出会うためにどうすればいいのでしょうか、という人々の心構えを引き出すことに成功したといえます。
ヨハネが人々に勧めたのは厳しい行ではなく
同じこの問いは、現代に生きるわたしたちからも出されていい問でしょう。単に年間行事だからといって実施する黙想会、九日間の準備の祈りとかを達成できたとしても、どれだけその行為に懸けているでしょうか。無事に終わったね、で済まされていないでしょうか。キリスト誕生のできごとは、自分の生き方を変えてしまうほどの大きなことなのです。
だからこそ、厳しい行をしなければ、と張り切ってしまうのでしょうが、ヨハネは意外や意外、生活に則した「行」を行いなさいといいます。しかも、その人が置かれている今の仕事、立場に応じたことを行うようにと勧めます。身近な「隣人愛」の実践です。生きる具体的な現場での思いやり、いたわり合いを実践しなさいと。これこそが、救い主との出会いのためにできる最高の準備なのです。
生きる現場における身近な隣人愛の実践
今の自分を見つめて、何が求められ、できることなのでしょうか。それは、自分にしかわかりませんし、自分にしかできない選択ですし、実践です。こうすることによって、自分も、相手の方もより「人間らしく」生きる、普通の、安心できる自然な姿を、自分のものにできます。
子ども食堂(目標は無くなっていくこと)の普及が、人間の尊さを意識させてくれるように、具体的な、しかも小さな行為が、本来の姿を取り戻してくれるなら、それらの諸行為が、意識した隣人愛の実践としてではなく、普段の行いとなっていくのでしょう。そうなったら、平和な安心した日々が送れますね。理想? 追いかけましょう。
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