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年間第11主日:天国には皆が招かれている。しかし天国は場所ではない!

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第11主日(B年)の説教=マルコ4・26~34

2018年6月17日

毎日、自分の言動を意識してみる訓練を

今年も半年を過ごしてきました。「今」を一生懸命生きることを大事にしていますと、時が経つことの速さを感じる時があります。「今を一生懸命生きる」といっても、特別なことをするわけでもなく、ごく普通に過ごしているだけのことです。一日のある節目で、自分がやっていることを意識してみる訓練をするだけのことです。今のわたしにとって、とてもいい挑戦だなと思っています。

人は、大人になって自己判断をして行動できるようになると、その人の持ち味(個性)が発揮されてきます。子どもの頃は、判断する基準を持ち合わせていないので、親や大人の人が勧めること、ことばを、疑義を挟むことなく実践しています。子どもが持つ驚異的な吸収力、学び力です。良いも悪いも両方です。

方言が分からず、苦労した小学生時代

わたしが長崎の大浦天主堂近くに住み始めたころは小学校低学年でした。子ども仲間の中で、他県から移動してきたわたしにとって、先ず戸惑ったのは「ことば」でした。長崎の方言がまったくもって分かりません。相手もわたしが話す言葉を理解できなかったはずです。これでは会話もままならず、喧嘩なんて始まるきっかけすら起きません。せめて「わかるようにしゃべれよ」と相手に通じる精一杯の言葉でいうのがきっかけになるかならないか・・。あとは続かないのです。万事休す。

具体的な例示があると、理解しやすい

ところが、教会の「稽古」では、教え方さんはわかりやすくしゃべってくれます。その中で、未だに憶えていることがあります。「天国ってどのようなところ?」「みんなにこにこ顔で、喧嘩もなく楽しく過ごしているところよ」。当時、よく喧嘩をしようとしていたわたしにとりましては、なんとも耳障りな話でした。母親がよく言っていました。「天国って、お前が好きな果物がたくさんなっていて、好きなだけ食べられるんだよ。そして、きれいな花々が咲き誇っているところなのさ」と。

要するに、天国は子どもにとって素晴らしいところなんだというイメージで、悪いイメージは全くないのです。子どもへの説明としては、子どもに関心のある話題を持ち出し、興味がわいてきます。そのイメージを出発点として、その人が成長していく中で、その年齢に合った「天国」のイメージが膨らんでいくのではないでしょうか。

天国ってどこ?じゃあ、地獄はどこに?

そうであったとしても、どうしても天国は「場所」という観念がつきまとってきます。昔よく言っていたものです。「天国ってどこ?」と言われれば、目を天にあげ、指をさして「空の上」と。「地獄は?」人差し指を下に向け、「地の下」と。

天国のたとえ話には、場所の観念がない!

しかし、福音書にしばしば登場する「神の国(天国)」は、どうやらわたしたちの考え方を改めないといけないよ、と呼びかけているみたいです。今日の福音書に出てくるたとえ話には、場所の観念はまったく出てきません。イエスさまは「神の国は人が大地に種を蒔くようなものである」と言われます。種がどのように成長するのか、種を蒔いた農家の人でさえ知る術もない、とイエスさまは言われます。そして、鎌を入れて収穫できるほどにちゃんと熟するのです。

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確かに、自然界の生物の生の営みはたくましく、わたしたちがその中身、プロセスを垣間見ることはできません。が、育ちの環境が確実に整えば人が気づかないうちに育つのです。種そのものに、育ちのプログラムが組み込まれているのです。それを刺激し、さらに必要とされるものを働きかけることで完成されていきます。

同じように、「神に似せて創られた」人間には、目に見えず、感じないながらも中に秘めた素晴らしいものがあるのです。大事なことは、それらの魅力が発揮されやすい環境にあるかどうかです。つまり、神の働きかけが功を奏しやすい状態にあるかということです。「委ねる状態」をいつも作り出していれば、神の現存を感じることができるのでしょうが、十分ではありません。むしろ感じられないことがいつもの状態です、といえば言いすぎでしょうか。

神の恵みが働きやすい自分の環境作りを

日常感じることといえば、自己の足りなさ、醜さ、いやらしさ、弱さ等であり、仮に、自分の生活が順調にいっていたとしても、ひょんなことで挫折感を味わったりするものです。それほどに動揺しやすい、傷つきやすい弱い存在です。場合によっては、絶望感に襲われ、一歩も先に進めない状態に陥ってしまいます。

しかし、わたしたちは自然界の生命の営み以上に、神の恵みをいただいて生きているのです。それこそ、わたしたちが気付かないだけです。人生のゆきづまりだけが印象深く残り、神の力が発揮されていることに心が向いていないのです。人生の辛さ、悩みが絶えることはないかもしれませんが、それ以上に、神からの働きかけは絶えないのです。働きやすい環境を整えましょう。草取りをし、水やりを実行しましょう。その先に、「わたしが喜ぶ」天国(神の国)が開かれていきます。

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