『年間第33主日』の聖書と説教はこちら

四旬節第1主日

2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

四旬節第1主日:イエスに倣って、四旬節は”信仰を鍛える機会”にしたい

今日の福音は、これから始まるイエス自身の道のりに向かうイエスの意気込みを感じます。霊の導きに身を任せ、人間的な自分を鍛え、ひたすら霊の導きに注目し、従っていく決意が、その行動に現されています。
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

四旬節第1主日:わたしは、神に向かって生きているかいないか 確かめたい

要するに、人間は神を大切にできていないのです。それに比べると、イエスは神を大切に思い、神に忠実を貫いたのです。はたして「わたし」はどちらに属する存在でしょうか。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

四旬節第1主日:人に欲ある限り誘惑はつきもの。その誘惑を克服するには?

イエスは誘惑を受けた際に、どのように対処したらよいのかを、わたしたちに示されています。何をするにも、イエスの思い、心は神の意思に向いたままです。そして、神の意思を知る最良の道、それが聖書に聞くことでした。聖書の言葉を思い出すことだったのです。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

四旬節第1主日:本来の「わたし」とはいったい何者か?を思いめぐらす

コロナ禍の予防対策は、分かっていても辛さが長く続くと負けてしまうことがあります。マスク着用をたたみかけられると窮屈さを覚えてしまいます。わたしたちは何に気づいて、どう鍛錬すればいいのでしょう。神からのメッセージは?・・・思い巡らしています。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

四旬節第1主日:イエスはメシアとしての自己を肯定し、誘惑を試練に変えた

今日の福音では、イエスはメシアとしてご自分の存在、役割をしっかりと見据え、悪魔の3度にわたる「誘惑」を「試練」に変えていくエネルギーとしてお示しになりました。果たして、今の「わたし」は、・・・。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

四旬節第1主日:どんな状況でも!神は人を正当に評価し支えて下さる

イエスが伝えたいことは、「わたし」の人生、日々の歩みは神に向けられたものであるということではないでしょうか。イエスが、ご自身の使命を果たしていこうとするその初期に、このような体験をなさったということは、わたしたちの人生の歩みの「しるべ」を示してくださったのでしょう。
2018年/B年説教=神への道標

四旬節第1主日:内なる「後押し」とは?四旬節は神が与える「訓練の場」

神は「荒れ野」にイエスさまを追いやり、訓練されます。どのような苦境に追いやられても、神だけが支えであるということを体感できる場が「荒れ野」だからです。その訓練の後についてくるのが、確固たる神への信頼です。
2015年/B年説教=イエスのこころ

四旬節第1主日:イエスが荒れ野で受けたサタンの誘惑と試練とは?

わたしたちも、人として鍛錬され、信仰者としても鍛えられる工夫を見つけ出していく必要があります。日常の、普通の生き方の中でヒントはたくさんあるような気がします。
2016年/C年説教=神のぬくもり

四旬節第1主日:生きる柱は神から出て、神に生かされ、神に戻る人生

神から出て、神に生かされ、神に戻る人生であるということです。これらがわたしたち一人ひとりの人生の根底にあるかどうかをわたしたちに語り掛けているようです。
2017年/A年説教=神のふところ

四旬節第1主日:「荒れ野」で誘惑に出会ったとき、神に向かうか、背を向けるか?

今の自分の信仰者としての歩みを確認する大ヒントが、今日の福音のイエスさまの姿に込められています。つまり、神に向いているのか、その反対を向いているのか、どうなんでしょうか。イエスが受けられた三つの誘惑をとおして振り返ってみましょう。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第1主日:「荒れ野のとき」とはどんな「時」?「ノー」と言えるものがありますか

今日の主日は、神を大切にできなかった人間の姿と、おん父に対して最後まで誠実であられたイエスさまとが対比されています。さて、この「わたし」はどちらに属しているでしょうか。イエスさまは「現世的な」生き方に対して「ノー」という返事を出されたのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第1主日:神に背を向けるか神に生きるか、自分の信仰を確かめよう

「人はパンだけで生きるものではない」「「あなたの神である主を試してはいけない」「神なる主を礼拝し、ただ神にだけ仕えねばならない」というイエスさまの回答は、徹底したご自分の心の中を宣言されたものです。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第1主日:イエスは神であり人間のモデル、目指すべき存在者です

イエスはできることならば苦しいこと、辛いことは避けて通りたいという心と態度をとりたくなる存在者であった。それでも、荒れ野での試みには屈することはなかったのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第1主日:まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めること

だからと言って、働かなくてもいいということではありません。食べ物を得るためだけの働きではなく、生きる範囲、幅は広いものであるということでしょう。わたしが生きるのは、わたしと、近くでは、わたしの周りにいる人のために役立つことなのです。
タイトルとURLをコピーしました