
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
四旬節第1主日(A年)の説教=マタイ4・1~11
2026年2月22日
わたしたちがいつも使っている「ことば」は、それぞれの思い、考え、意見等を周りの人たちと分かち合い、人として、より成長していくために必要なコミュニケーションにとって大事なものです。さらには、ある時には大きな声を出したり、ささやいたり、その時に応じて使い分けていきます。
また、その「ことば」は、生きています。というのは、ある時には相手を励まして力づけ、またある時には相手を追い詰めて窮地に追いやったりと、同じ言葉が全く逆の働きをしてしまうからです。
特に最近の、といえば叱られそうですが、若ければ若いほどの人に見られる傾向、これはわたし個人が感じていることですが、「交流下手」な人が多いように見えます。それも、自分が他者との交わりによって傷つけられたことだけを、それこそ大げさに主張するのです。自分が不快なのは「その人」のせいであると、他者の責任にしてしまうそんな主張が顕著です。偏った「自己中」ではないですか。「自分だったらあんな言い方はしない」とか「わたしならあんな言葉遣いはしない」など。でも、その人は、それこそ、「あなた」が思っているような意図で言ったのではないかもしれないじゃないの、だから、お付き合いを重ねてお互いをより知り合うことが大事なんじゃないですか、と言いたいのです。
相手の方は努力して、いろいろ配慮して「あなた」と接しているのに、その心を読み取ろうとしない心。コミュニケーションの大切さをわかってほしいです。こころからの願望であり、大人になってほしいです、と言いたいですね。これまた、「自己中」でしょうか。
自分を振り返ってみればよく分かることではないかと思うのですが、わたしたちは素直になるときもあれば、裏切ることもあります。やさしくなるときがあれば、意地悪するときもあります。いずれにせよ、わたしたちは「良い者」でありながら「悪い者」にもなりうるのです。これがまた現実ですよね。
いよいよ四旬節に入りました。きょうは、その最初の日曜日です。そして、きょうのみ言葉は人間の、神を大切にできなかった姿(第一朗読アダムの不従順)とキリストのお父への誠実さとが対比されるような形で述べられています。

ところで、 カトリック教会の祈りに「主の祈り」があります。文語体の訳では、「われらを試みに引きたまわざれ」と祈っていました。しかし、聖公会と共同で訳した新しい訳では「わたしたちを誘惑に陥らせず」と変更されています。だからといって、イエスが教えた祈りそのものが変わったのではなく、訳語が変えられたにすぎません。ギリシャ語原文では、文脈に応じて「試練・試み」の意味にも、「誘惑」の意味にもなりうる言葉が使われているそうです。
日本語の「誘惑」は、「人の心をまどわし、悪いことに誘い込むこと」ですから、悪い意味合いを含んだ言葉です。しかし「試練」、あるいは「試み」は「直面している困難に積極的な意味を見いだし、それに立ち向かおうとする前向きな態度」を表しますから、悪い意味の言葉ではありません。現に、「悪魔の誘惑」という表現はありますが、「悪魔の試練」とは言いませんよね。ですから、日常、困難や苦しみを、できることならば避けたいと思うのは山々です。がしかし、それを微塵も含まない人生はあり得ませんよね。そう言えないでしょうか。困難や苦しみを避けることができない以上、それを「誘惑」の機会にしてしまわず、「試練」と受け止めさせてほしいという祈り、願いに変えることができればうれしいことです。
同時に、大事なのは苦しみや困難を「誘惑」としないで、いかにして「試練」とすることができるのかを探ることです。そうしないと、ずるずると悪魔の誘いに引きずり込まれてしまいます。
きょうの福音では、イエスが、困難をいかにして「試練」にしてしまったかをお示しになっています。
ヨハネから洗礼受けたとき、イエスに「霊」を送り「わたしの愛する子」と呼んだ神が、今度は同じ「霊」によってイエスを荒れ野へと導かれます。そしてイエスは、荒れ野で悪魔から三回にわたって誘惑を受けられます。
一つは、飢えに悩まされるイエスのパンに対する誘惑です。二つめは、神の支えがあるかどうかを確かめたいという誘惑。三つめは、神を無視して自分の繁栄を求めたいという誘惑です。
この三つの誘惑は、エジプトを脱出したイエスラエルの人たちが荒れ野で体験した三つの誘惑に呼応しています。彼らの誘惑は実に具体的です。
まず初めに、イスラエルの民はエジプト脱出後すぐに食べるものにこと欠き、エジプトにいたころの食べ物を思い出します。生きるために苦労はあったものの、食べ物は保証されていました。そして、不平不満を言い出します。地上の現実が大事なのです。生活はいくら不自由でも、食べ物に不自由しなければそれでいいというようになっていったのです。これに対してイエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と答えます。
次に、人々が荒れ野の奥に進んでも、そこには、見渡す限り石地だけなのを知って、本当に神がいて自分たちを支えてくださっているのかどうか不安になり、そして「主を試みた」のです。イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』」と対応します。
さらに、人々は現実的生活の幸福を保証してくれる神にひかれます。そして、それにしがみつきたくなります。この世の幸福を断ち切ることは、人間にとって難しいです。これに対してイエスは『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」と答えます。
荒れ野における悪魔からの誘惑に対して、イエスの取った対応は、徹底して、ご自分の心のすべてを神に捧げ切っていることを宣言して、悪魔を遠ざけてしまいます。イエスにとって神がいつも主人なのです。
わたしたちが心の荒れ野に立たされた時に、果たしてどんな対応を取るでしょうか。目の前の苦労、辛さにどう対峙すればいいのでしょう。まずは、イエスを意識しましょう。
イエスに、さらに願いましょう、祈りましょう。


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