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年間第4主日:人間的な力も求めながら、さらに、神に向かう「わたし」

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年間第4主日(A年)の説教⇒2026/2/1

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第4主日(A年)の説教=マタイ5・1~12a

2026年2月1日

「紙の出版物一兆円割れ~電子と合わせても減少」という新聞の見出しが目に入りました。

「2025年の紙の出版物(書類と雑誌)の推定販売金額が前年比4.1%減の9675億円となり、1975年以来、半世紀ぶりに一兆円割れしたことが26日、出版科学研究所(東京)の調査で分かった。96年のピーク時の4割弱に落ち込んだ。成長を遂げてきた電子出版を合わせても4年連続で減少。出版不況の深刻な現状が浮き彫りになった。

紙の出版物の推定販売金額は76年に初めて一兆円を突破。96年には二兆6564億円に達し、その後減少が続いていた。・・・コロナ禍の「巣ごもり需要」による回復以降3年連続で減少していたが、大ヒット映画「国宝」の原作小説などのヒット作が相次ぎ、微増に転じた。・・・雑誌として集計されるコミックス(単行本)も、15%の大幅減少。「呪術廻戦」などのヒット作が相次いで完結した他、デジタルへの移行が進んだことが要因とみられる。」(南日本新聞2026年1月27日朝刊)

わたしたちは、個人的にも、グループとしても、はたまた、会社として、地域社会として、良い時もあれば、どうしよもなく苦しい、辛い時期を過ごさなくてはいけない時があります。それも悪くなれば、その期間がいつ終わるのかわからない闇の世界に追いやられることもあります。その挙句に、その苦しさ、辛さに耐えきれず、その生き方に自ら決着をつけてしまうほどに追いやられる人もいます。自ら決着をつけられる力のある人はまだしも、そうでない人にとってはどうでしょうか。こうしたときに、話し相手になってくれる人がいる、いないではその心身に覚える安らぎ、平穏な気持ちを維持するには、大きな違いがあるように思います。

いつの時代も、「もの」が発展し、それとともに、「もの」の便利さがきわだってくると、そちらの方が優先され、何も人間的な努力をしないで済む道に突き進み、さらにデジタル化が推し進められていきます。それにつれて心配事が出てきました。これはわたしだけが思っていることかもしれませんが、・・・。

それというのは、人は人と接していないと、語彙不足、表現力低下、民族気質が失われていくのではないかということです。かつて、オリンピック誘致の際に話題になった「お・も・て・な・し」の心というのは、そのきめの細やかさ、温かさ等、日本人ならではの魅力があるのではないでしょうか。外国の方が来られて言われるには、「どこに行っても日本人は親切で、優しく、温かく迎えてくれます」と、とても好評です。中でもわたしがすごいと思うものがあります。周りの状況を見て判断する「配慮の心」です。外部の表には、全く見えない先取りの優しい心ではないでしょうか。いわゆる「目配り、気配り、心配り」ですよ。

年間第4主日:心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
年間第4主日(A年)の福音=マタイ5・1~12a イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

きょうの福音は、マタイ7章の終わりまで続く「山上の接教」の冒頭部です。特に3∼10節は神に「幸い」とみられる人は誰であるかを説く言葉であり、「真福八端」と呼ばれた箇所です。中でも「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という言葉に注目してみましょう。というのは、きょうの典礼のメッセージにつながる言葉であろうと思うからです。

ヘブライ人の「貧しい」ということばは、単に物質的に貧しい状態を指すことばではなく、いろいろな出来事によってはぎとられ、追いつめられていく状態にある人々を指すそうです。例えば、会社が倒産して、生きるすべてをはぎ取られていく状態にある人とか、しつこい病に健康がおかされ、絶望に追いやられていく人々とかです。このような人々が「貧しい人」なのです。心身ともに苦境に追いやられている状態の人と言えます。

このように、永続する悲惨な状態におかれて、それに圧倒されている人々とは、別の言い方をすれば、自分の中にそれを乗り越える力を持たない人びとであるということになります。今与えられているいきるための力に恵まれない、という意味での人びとの具体的な姿が述べられているのが、きょうの第二朗読に紹介されています。

「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」この聖書の言葉を、上下入れ替えて読むと、「世の愚かな者とは」「世の弱い者とは」「世の卑しい、軽んじられた者とは」どのような人なのかが読み取れます。

確かに、人生はいつの時代においても厳しく、過酷なものです。気を抜けば、落伍者になりかねません。ちょっと油断すれば、取り返しのつかないものになってしまいます。まさしく絶えざる緊張の連続で、いわば、たたかいでもあります。そうした中で、才能や富、健康や家庭に恵まれず、出会いによるよき友、師に恵まれない者は、苦しい生活を余儀なくされます。こうした人々の人生には、不安、苦悩、絶望との闘いがついてまわります。

そこで、人生を支える力を人間的な次元に求めず、神に求める人を「心の貧しい人」というのです。そして、その人は「幸せ者」です、とイエスは説きます。

結局、イエスが言いたいことは、幸いな人とは、前半部(3~6節)が示すように圧迫されて苦しんでいてもへこたれない人のことであり、また後半部(7~10節)が示すように、圧迫の中にあっても平和を作り出す人のことです。

物事には限界があります。行き詰ったときにどう振る舞うか。自力で脱却できない時に、どう工夫するのか。それは人にしかできない行動力です。人間的な力も求めながら、さらに、神に向かう「わたし」を心しておきたいです。

 

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