
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第26主日(C年)の説教=ルカ16・19~31
2025年9月28日
ところが、最近では「話し上手は聞き上手」というように変わってしまったのでしょうか。そのあたりを調べてみますと、次のような説明文を見つけました。
いずれの言い方にしても、基本的にはその人のコミュニケーションの姿勢に変わりはないのではないでしょうか。やはり、お互いを生かしあうためには、「聞きあう」ことが大事になってきますよね。そうすることによって、言外にある相手の気持ちをも、読み取ることが出来るようになるのではないでしょうか。要するに、「配慮する」ことが出来るようになるのです。言葉を変えれば、気の利いた言動をとることができます。
さらには、それこそ周りのみなさんが喜んでくれる仕事ができるようになってくるのではないでしょうか。そうなると、自らも充実感と躍動感をもって、さらなる奉仕を重ねていけるようになるでしょう。わたしたち人間は、みながそうであるように、相手方の何げない心配り、さりげない振る舞い等に、心温まる感激を覚えます。その感激の余韻が「わたし」の中で、さらなる奉仕へと気持ちを膨らませてくれるのです。

今日のイエスのたとえ話には、二人の人物が登場します。一人はラザロといわれる貧しい人、もう一人は金持ちです。二人は見た目において、明らかに、あまりにも対照的です。次のように記されています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」と。
金持ちと貧しいラザロとの間には大きな、分厚い淵があります。しかも、それを作り出しているのは金持ちの方にある「鈍感さ」と指摘されてもいいのではないでしょうか。彼の家の門前に横たわって「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」と思っているラザロに、金持ちは気づきもしない、あるいは、気づいていても、気づかないふりをしていたのではないかといわれてもおかしくないでしょう。
快適な生活の追及は隣人から目をそらさせてしまいます。さらには、その結果、貧しい人たちを踏み台にしている事実を忘れさせてしまいます。確かに、豊かな生活を享受する者は、それなりにたいへんな努力をして、豊かさを入手したのでしょう。それは否定しませんが、その豊かさが、周りの人の犠牲の上に立っているかもしれないという可能性すら、というより、多くの人との助け合いの中で今の自分があることを、しっかりと見定めたいですね。周りにいろいろな方々たがいるからこそ、自分の成長もあるし、苦しさもあるけど、楽しさもたくさんあるし、充足感を味わうこともできます。
金持ちとラザロは生きている間も対照的な生き方ですが、死んだ後も対照的です。
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、「アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」
両者の間にある「大きな淵」は、生前、金持ちがラザロに対する「鈍感さ」「無関心さ」が生み出したものです。金持ち自らが作りだしたラザロとの間の大きな「裂け目」にしてしまったのです。自分がダメなら、せめて兄弟の悔い改めをと願いますが、アブラハムは答えます。「アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」と「聞く」ことの大切さを伝えます。
この世で生きるわたしたちには、天の国を垣間見ることができません。しかし、神のみ言葉を聞くことはできます。「聞く」ことが救われるか滅びるかの分岐点になります。その結果、「聞く」ことは日常の生き方を変えてくれることにもなります。
自分のいのちを保つために、財産の保有はどこまでがゆるされるのでしょう。言い換えれば、どこからマンモンに仕える生活になっていくのか、という問いに突き当たります。これこそ「信仰の戦い」なのかもしれません。
聞き上手になりましょう。
コメント