
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第17主日(C年)の説教=ルカ11・1~13
2025年7月27日
わたしたちの周りには、わたしたちを和ませてくれるもの、楽しませてくれるものがたくさんあります。それらを上手に生かし活用できているのかといえば、自信がありません。そのものの活用の仕方を十分に知らないことが多いのでしょうか、できる人から見ると勿体ないことだと思われそうですが、・・。
そのような便利な楽しいものも、用い方ひとつで結果が本来とは真逆なものになってしまいます。基本的な扱い方はルーズにしてはいけないということでしょうか。
このことは、なにも「もの」の扱い方ばかりではなく、わたしたちが人として生きることについてもいえるような気がします。
わたしたちはイエス・キリストの信仰者です。わたしたち一人ひとりの言動は、すべて神の栄光を賛美し感謝をささげる一つ一つになっているわけです。そのことをわたしたちが意識するか否かに関係なしにです。
したがって、わたしたちの日常は、「信仰者として生きる」ことにあります。このことは言われるまでもなくわかっていることです。が、わたしたちに任された自由意志力を用いて、神からのささやき、呼びかけに逆らうことが出来ます。だからこそ、天と地のすべてを無から創造された力強い神が、わたしたち一人ひとりを、親以上の愛情をもってわたしたち一人ひとりに心を配っておられることを分かっていても、「ノー」という態度をとることがよくあります。神のわたしたちへの心配りこそ、わたしたちの不安を取り除き、希望を与えてくれるものではありませんか。それなのに、・・。
神とわたしたちとの関係の始まりは、いつも神ご自身です。神の方からわたしたちへと近づいてくれるのです。人間自らが、順風満帆の生き方をしている時には、神の介入を邪魔もの扱いにしてしまうんですね。神の存在すら忘れてしまうような言動をとってしまいがちです。また、現にそういう行動に出てしまいます。

こうした生き方の根底にあるもの、信仰者として基本的に置き忘れてはいけないもの、それは何か。その一つは「祈り」でしょうか。
今日の福音は、イエスの弟子たちが「祈りを教えてください」とイエスにせがんでいます。わたしたちはどうでしょうか。必要なこと大事なことは分かっていても、さてどのように祈ったらいいのかわからない人も多いのではないでしょうか。神はとてつもなく大きく、偉大な方であるわけですが、ルカはそう感じさせるような表現を避けて、神との信頼にみちた関係を強調しようとして「父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を紹介します。「アッバ」父よと神に呼び掛けるのは、親しみやすい慈愛にみちた方とするイエスの考えの反映でしょう。
祈りとは神の姿に勇気づけられ、また、大胆な信頼をもって心を開き神にすべてを委ねることです。そんなに言われてもなかなかね、…。と後が続きません。このようにわたしたちいくら強がりを言っても、弱い者です。また、心の深いところでは、みな醜い欲望を持っています。だから、一緒にいる人を傷つけたり、苦しみを与えてしまったりするのです。これが現実です。つまり、罪のない人間はいないのです。だから、そういう人間であるわたしたちが救われるためには、日常の中で、赦しを願う以外にその道はないのです。
これもまた現実です。万事が順調な時には試練があったとしても乗り越えられそうな気がしますが、いざ、試練に出会うと打ちのめされてしまうことの方が多いのではないでしょうか。わたしたちは心底弱いのです。だからこそ、試練に勝てるようにと願い続けなければいけないでしょう。
幸いにしてルカは、神をわたしたち人間に近く、親しい方として紹介してくださっています。それは「主の祈り」の冒頭から始まっています。「父よ」は、幼い子どもが「パパ」とか「父ちゃん」とかの呼びかけに匹敵するごく親しい愛情のこもった呼びかけです。
わたしたちの身近におられる神。わたしたち一人ひとりに心を配り、不幸には心を痛め、手を差し伸べて下さる方です。旧約においても愛情にみちた神の姿が描かれています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49章15)
人はみなそうではないかと思います。というのは、安心・安全な環境においてこそ、人としての成長が促され、豊かな人となりの人間が育っていくのではないでしょうか。中でも、この人と一緒にいると安心しきってしまうほどの人。そのような存在の方が神であれば、でも、神はそうなんですが、人間がそうさせていないのが現実でしょうか。人間がどこかで拒否しているんですよ。頭でわかってはいるんですが、心で受け止めきれていないんですね。いわゆる、信仰の「偏頭痛」現象とでもいうのでしょうか。いわゆる、腑に落ちきっていないんです。
このことも含めて、大胆に神に呼びかけなくては、いけませんね。「わたし」は弱さだらけですから、・・・。
祈りの心が少しずつ育ちますように。
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