年間第33主日(B年)の説教=マルコ13・24~32
2024年11月17日
典礼歴も終わりに近づきました。そして、きょうの福音は終末時における人の子の到来を描いています。「終末」というと、わたしたちは暗い思いを抱き、落ち込み、悲壮感を煽ってしまいがちになりますが、いかがでしょうか。自らの裁判を思い起こし、断罪の場に立ち、いわば、「負」のスパイラルに落ち込んでしまうのです。確かに、み言葉は「破局・滅び」の概念を含みますが、それは同時に、今週の福音が「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」と述べているように、「救い」という要素もあるのです。少なくとも、「選ばれた人たち」にとっては、終末は破壊、破滅ではなく、「救い」の時なのです。
現在のわたしたちの社会においても、人間の認識の「浅さ、甘さ」(?)ゆえに、その輪を大きくできない悩みを抱えつつ、でも、落ち込むことなく、望みを切り開いていこうと前向きになっている運動グループがあります。
ごく当たり前のことなんですが、この運動が「平時」を、というより「普段」をとても大事にするがゆえに、全国で認められていくのではないでょうか。誰でも、志を同じくできれば参加でき、だからこそ、この運動においては、ネガティブな、マイナス思考は通用しないということです。
その会とは「全国高校生平和集会」です。その中心的な役割を担当しているのが、「高校生平和ゼミナール」であるということです。彼らは不戦や核兵器廃絶を訴え続けて来ましたが、近年では、その数が減少傾向にあります。高校生平和集会は、1974年の原水爆禁止世界大会で分散会として設けられたのが始まりで、広島や長崎で毎年開催されてきました。今年は初開催から50年となっています。(南日本新聞2024年11月10日朝刊)
東京弁護士会所属の白神優理子弁護士(41歳)は高校時代に平和ゼミに所属し、戦争体験者から「日本国憲法が自由で平和な社会をつくる」と聞いて仲間と憲法を学び、体験者からの『命のバトンだ』と気付き、法律家を目指したのだということでした。
また、80年代後半、30道府県以上にあったゼミは、生徒や世話人の不足で11都府県にまで減りました。が、42年間、サポートしてきた元高校教諭の沖村民雄さん(76歳)は「高校生が平和を学ぶ場が足りていない」と懸念しています。
話しの中には、避けられないこととして「戦争・抗争」「核兵器」等の話が出てくることになります。しかし、それらは、平和運動を減退させる理由にはなりえません。今あのウクライナ侵攻に見るように、戦いが始まると容赦のない砲撃がなされます。非人道的な事態が生じること、これまた致し方ないものとして見過ごされてしまいます。これが「戦争」なんですね。でも、この平和運動が意味をなさないということはないです。しっかりとブレーキの役割を果たしてくれています。だって、わたしたちはみな、戦争現地にいる兵士も含め、平穏、安全、安心な日々を願い、求めているからです。それ以上に、なんといっても、神ご自身がそうであることを望んでおられるからです。ここに、この運動にそそぐわたしたちの信念、信仰があります。
この運動に関わっている一人ひとりが、その心身を神に委ねきっている姿こそ、この運動の真骨頂です。だからこそ、紛争等に対する、直接的ではないにしろ、しっかりとした抑止力になっているのです。
きょうの福音書に、どうしてイチジクの木のたとえ話が出てくるのだろうと思っていました。しっかり読めばイエスが説明されていますよね。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と。
人の子の到来は確実な未来ですが、イチジクの木をたとえに用いて、その到来の確かさを強調します。イチジクの木は落葉樹ですから、冬になると葉を落とし、逆に夏に近づけば葉を茂らせます。このような木は時節の到来を知らせる確実なしるしとなります。
既述したように、聖書が説く終末には、破滅と救いという二つの側面があります。それを一層強調しているのはルカです。(ルカ21章25節~28節)ルカもマルコと同様に天変地異を書きますが(25節)、しかしその後に、 「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」が加えられています。そして、マルコと全く同じく、雲に乗って到来する人の子を描きますが、その後の救いの描写をマルコは「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」と書いていますが、ルカは「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」のようになっています。
つまり、マルコは「人の子」が行う救いの業を描いています、が、しかし、ルカは「あなたがた」への呼びかけに変えています。これは26節に述べられている、恐ろしさのあまり気を失う「人々」と「あなたがた」との対比を一層際立たせるためです。
「人々」から「あなたがた」を分けるものは、はたして何なのでしょう。わたしたちは、一人ひとり、それに答えることができているからこそ、今があるのです。そして、成功裡に終わらせましょう。終わりに、人の子から「あなたがた」と呼ばれるために、・・。
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