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年間第20主日:「信じる」ことは、イエスと「一つになる」こと。それは・・・

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年間第20主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第20主日(B年)の説教=ヨハネ6・51~58

2024年8月18日

年を重ねてきますと、昔、父親がよく口にしていたことを思い出します。「年を取るとね、いつの間にか心身の不調が出てくるものだよ」と。その時には、なんでそんなことになるのよ、という思いがしていましたが、自分が実際その年に近くなってきますと、それが現実なんだと、今になって納得しています。

いきなりですが、「一つになる」とわたしたちは日常よく口にしますが、改めて辞典を調べてみると「統一・統合されてまとまる、同じ気持ちや意志のもとに協力・協調する、という意味で用いられる表現」となっています。(実用日本語表現辞典) 

「同じ気持ちや意志」ということになると、周りの仲間の皆と、同じ何かを共有していることって大事になってくるような気がします。でも、それがないと「一つになれない」のでしょうか。

今、恋人同士の場合を想定してみましょう。お二人はそれぞれに違った体験、育ち、生きてきた環境も異なります。でも、求めあう関係がいつの間にか生まれています。お互い相手に感じる魅力も違うでしょう。男性の感覚、女性の感覚の違いからくるものでしょうが、それにより、新たな「自分」を発見することにつながっていくのかもしれません。でも、それこそ、お二人は「一つになれる」んですよね。

この時の心の動きを振り返ることができるでしょうか。その時って、なにか相手の方に対してとても優しくなっていませんか。穏やかというか、おおらかというか・・・。少なくとも目の前の相手方に対しては、同じ方向に、共に歩み続けていく覚悟が自然と生まれてはいませんか。言われなくても、強制されなくても、自ずとそういう心が出来上がっているんですね。そして、それが表に浮かび上がってくるんですよ。これがまことの「信じている」ことの始まりなのでしょうか。これが愛というものでしょうか。

わたしたち人間は生来、こうしたやさしさ、寛大さ、温かさ、おおらかさ等の心情を持ち合わせているのです。それが、置かれた環境により、発揮されるとき、場所、判断が育っていないだけなんだと思います。

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「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」とイエスは民衆に語ります。明らかにこの言葉に対してユダヤ人たちは驚きの表情を隠せません。驚きのみならず、つまずきさえ覚えてしまったのです。「ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」のです。

ここでイエスは「パンを食べる」という言葉を使われます。また、これに続く「血を飲む」という表現も、その中に込められているイエスの思いは、わたしたちのために十字架の上で殺されるという神秘が含まれています。それゆえに、イエスの死が、わたしたちのためであるということを自覚することが大事です。そして、その死に対してわたしたち自身を、その生き方、考え方、思いを合わせていこうという、そして「一つになろう」という姿勢が求められます。

イエスの思いを自覚する、思いを合わせていこうといっても、形だけのものになったらどうでしょう。いただけませんよね。

イエスは言葉を続けます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

つまり、「食べる」「飲む」ことによって、イエスと完全に結ばれ一つになるというのです。あの恋人同士が、「一つになるため」に求めあったのでしょうか。必ずしもそうではないと思います。その前に、当然のごとく、お互いがお互いの人柄に対して引き込まれる何かが、自ずと湧いていたのです。その視点から見れば、「わたし」の中に「イエス」に引き込まれる何かが芽生えているのでしょうか。イエスはいつもわたしたちに温かいです。オープンです。それに対して、イエスの十字架、あがないをしっかりと受け止めきれている「わたし」がいるでしょうか。

あの恋人同士間の感覚を、イエスとの間でも芽生えさせることができれば、聖体を本当の深い信仰によって受け取ることができるでしょう。その結果、イエスとの愛による一致が見事成し遂げられます。

これは恵みです。「わたし」の中に救いが実現するのです。

聖体を「信仰すること」は、イエスとの思いを共有することと言えるでしょう。いわゆる「一つになること」です。「 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17章21節)天の国で父と子が一つであるように、イエスと弟子たち(わたしたち共同体)が一つになるようにしてください、とイエスは祈っています。

そのためには、わたしたち一人ひとりが神の方に引き寄せていただけるように、自らの限界を認め、素直になることではないでしょうか。「信じる心」は、わたしたちの心の奥の奥に、静かに横たわって昼寝しているのでしょうか。起こしてしまいましょう。「年を取るとね、いつの間にか心身の不調が出てくるものだよ」と言った父親の言葉が実感として身に染みる今日この頃です。

その実感が、イエス自身と「一つになる」ことへの道筋を備えてくれるかもしれません・・・そうです。

 

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