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四旬節第4主日:この世の世界で、”見るべきもの”が見えているのか?

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2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

四旬節第4主日(A年)の説教=ヨハネ9・1~41

2023年3月19日

「三ない運動」は融和を好む日本的発想?

わたしたちは、日頃から「三ない運動」という言葉を耳にします。「○○しない」「△△しない」「××しない」という否定型のスローガンを3つ掲げて「三ない運動」と称する運動が提唱されるのです。そして、それを実践しています。よく公園にある立て看板に、「散らさない」「壊さない」「汚さない」という標語を見ることがあります。

これ以外にも、いろんなところでこのやり方は運用されているのではないでしょうか。

他に「三ない運動」を挙げるとすれば、公職選挙法に基づく、以下の「三ない運動」があります。政治家は有権者に寄付を「贈らない」。有権者は政治家に寄付を「求めない」。政治家から有権者への寄付は「受け取らない」。 (ウィキペディア)

わたしたちは日常あまり意識していないでしょうが、同じような発想のもと行動していることがあるような気がします。それは「消去法」というある問題を判断する一つの方法です。消去法 (しょうきょほう)とは、様々な選択肢がある場合に、誤りや、あり得ないものを消去していき、最終的に残った選択肢を選ぶ方法です。 テストなどで使用されるものです。

ところが、わたしたちの現実の生活現場で、様々な問題を解決する際にも、この方法を採用することがあります。でも、基本的には選択肢の中に正しい答えがあることを前提とするので、仮に選択肢が全て誤りであった場合には、正しくないものを選んでしまうということがあり得ます。(ウィキペディア) これは消去法の欠点とでもいえるでしょうか。また、消去の仕方一つで、全ての選択肢が最終結論になる可能性もあり得るのです。とはいっても、何気なくこの方法を違和感なく活用していますよね。悪いこととは思いませんが、これも直接的な論争をして相手を傷つけたくない日本人気質の表れでしょうか。

積極的、前向きに取り組む姿勢をもちたい

それでも「わたし」に求められているのは、こうした傾きを持っている日本人の一人だとしても、もっと前向きに積極的に答えを見いだそうとする試み、動きです。受け身ではなく能動的になることでしょう。結果として、自分が不利益を被るような結論が出るかもしれません。それでも、最終的には利益に変わっていくのです、という確信を持てるほどに取り組みたいです。こうした闘いがこれからも続いていくのでしょう。いつも一歩前に出て行く勇気が大事ですよね。

先日の新聞に、「鹿高専第一号 名誉卒業証書」「持論貫き無念の中退」の見出しを見つけました。鹿児島高専(霧島市)を不本意ながら中退した資産管理会社エンデバー社長の高橋忠仁さん(74歳)-横浜市、屋久島町出身-に、第1号となる名誉卒業証書が贈られたという話題です。「持論を貫いた」とはいったいどのようなことなのかというと、高専に在学中の話です。彼は1965年に3期生として入学しています。その頃、水俣病(新潟県阿賀野川流域で64年頃病気が発生=第二水俣病)が問題になっていました。

水俣病(みなまたびょう)とは、熊本県水俣湾周辺の化学工場などから海や河川に排出されたメチル水銀化合物(有機水銀 )により汚染された海産物を住民が長期に渡り日常的に食べたことで中毒性中枢神経系疾患が集団発生した公害病です。 (ウィキペディア)

高橋さんは最終学年の5年生3学期に学校新聞で「哲学のないエンジニアが公害を引き起こした。なぜ学ぶのかを問い続けねばならない」と書いたのだそうです。それを見た校長が激怒。持論を撤回するか、学校を辞めるかを選ぶように言い渡され、中退したということです。中退後に上京し、82年には横浜市で半導体関連製品販売の「PALTEK」を設立。21年に鹿児島高専と国立高等専門学校機構にそれぞれ5千万、同窓会に1千万円を寄付。先日の6日に名誉卒業式で証書が授与されたのです。(南日本新聞2023年3月10日朝刊)

いろいろな人、できごとに会うことによって、「わたし」は変わっていき、成長していきます。ある時は、他者から反発を買ったり、誤解を受けたり、その道は紆余曲折をたどりつつも、常に前に進んでいるんですが、気持としては千々に乱れっぱなしで、充実感がないことが多々あります。

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今日の福音書に登場する生まれながら目の不自由な人は、イエスとの出会いを通してどのように変わっていったのでしょう。

自分の限界を知っていた盲人 vs ユダヤ人

健康に恵まれなかったということからくるどうしようもない現実を前にして、人間のもろさ、多くの限界をしっかりと知っています。それが故に、なんと不安定な日々を過ごしていたのでしょうか。人間の心の渇き、苦しさ、悲しさをもろに味わっています。それゆえに、己の有限性をしっかりと見つめ、受け止めることのできる力があります。パウロが言う「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12章9節)ということです。神の恵みによる「力」なのです。だから、自分の力を過信して自分の姿を見つめることができないユダヤ人たちとはかなり違うのです。彼らは確かに「見えている」のですが、最も大切な恵みの力が見えていないのです。自分の弱さ、限界に直面していないからです。

見えない神の世界が、盲人には見えていた

目の不自由な人は、ユダヤ人と真っ向から向き合い、確信に満ちて一歩も退く気配はありませんでした。そして、「イエスはメシアである」と宣言してはばからないのです。目が見えている人には見えていない世界、神の世界が、目が見えていない彼には見えていたのです。

高橋さんが名誉卒業証書を受けたということは、当時の彼に見えていた世界が、他の人々にも見えるようになってきたということなんでしょうか。弱い人間の世界でも、だからこそ、その見えない裏では、人を動かすほどの神の恵みの力がひそかに、でも、確実に働いているんですね。感じ取っていきたいことです。

そこに、わたしたちの信仰の苗床があります。

 

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