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年間第2主日:絶えず新たな問題が起きる現代、ヨハネの情熱に感染したい!

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年間第2主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第2主日(A年)の説教=ヨハネ1・29~34

2023年1月15日

一年の初め、元日生まれの人は、正真正銘、一年の時の流れとともに年齢を重ねていくことになります。同時に、その人の成長の歴史をも刻んでいくことにもなります。

多くの人が「美しく年を取りたい」と願う?

ある年齢を重ねた今、自分の生きてきた過去を振り返ってみますと、若い頃の思考、情、その他いろいろな傾向が、全くなくなっているとまでは言わなくとも、あまり自分の中で目立たなくなってきたなと感じています。と言うより、そのことが気にならなくなってきているんですね。

例えば、当時の流行り言葉などに関心が深く、興味を示していたのに、今の流行り言葉には関心を示さないとか、歌にしても運転しながらラジオから聞こえてくる曲をすぐ覚えたりしていたのに、今ではなかなか覚えませんね。また、覚えようとしていないです。あの頃は覚えようとしなくても、記憶に残っていたのに。今ではそれがなくなったというのか、・・。

こうした現象を一般に「年のせい」として片付けてしまうのでしょうか。「年を取ったせいよ」と、何でもかんでも年齢のせいにされるのって、年を取ることが嫌になってきませんか。とは言っても「美しく年を取りたい」と願う人がいるのは確かです。そのような人は多いんでしょうか、どうでしょうか。

世代を超えた関わり合いで実現可能なのかも

確かに体の動きは若い時のようにはいかないのですが、だからこそ、若い人が力を貸して助け合っていく時、その「時」が双方にとって、成長の「出会い」になっているんですよね。それぞれの、その時の年齢に応じた成長レベルがあり、刺激を受けて「老い」にさらに磨きがかかり、輝いていきます。若い人にはさらなる「知恵」が育まれていきます。それぞれの年齢の「美しさ」が保たれていくのでしょう。双方にとって“ウインウイン”の関係が生まれた「時」です。普段はこんなこと意識して行動はしていませんが、心の奥ではこのことがいつも進行しているのです。

世の中に年配者と若者がいるということは、その社会の空気を、雰囲気を作り出すために必要な、重要な存在者だからであり、その雰囲気の中で「今の社会の常識」も形成されていきます。

我が国は法治国家ですが、全てのことが、日常生活のすべてが、法律で万全にスムーズにいくものでしょうか。法が大事であることに変わりはありませんが、生活するには潤滑油がどうしても必要です。その役割を果たすのが一人ひとりの「人となり」ではないかと思うのです。

それが育まれていくのが、お互いに関わる際の助け合い、慮り合う行為の中にあるのではないかと思うのです。要するに他者との「出会い」です。どのような人と出会うのか、どのような時に出会うのか、その人の「人となり」に影響してきます。

洗礼者ヨハネの弟子たちは師の情熱に感染!

 きょうの福音書で、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として宣言し、紹介します。ヨハネは、はじめからイエスがメシアであることを知っていたわけではなかったのです。ヨハネは彼の体験から、イエスの真の姿を知ることになったのです。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

年間第2主日:洗礼者ヨハネはイエスを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」
年間第2主日(A年)の福音=ヨハネ1・29~34 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。

 同時にヨハネは、イエスがメシアであることを信じ、弟子たちに信仰告白をして初めて、自分がそれまでしてきたことに遡り、自分の任務について目覚めるのです。「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」というわけです。そして、イエスの証しを実践していくのです。それは、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方」の導きがあってのことでした。

 こうしたヨハネとの出会いがあった彼の弟子たち、彼らの人生におけるこの出会いが彼らにとっては「恵みの時」となったのです。それは、弟子たち自身の人となりもさることながら、ヨハネ自身が何かを持っていたからです。それは神に対する情熱でした。だからこそ、誰よりも先に救い主としてのイエスの存在に気がつき、弟子たちもヨハネの燃える熱意に巻き込まれていったのです。しかも、ヨハネは、見てくれのまやかし者ではなく、心の奥から真の救いを求める情熱そのものだったのです。そのヨハネの情熱に、弟子たちも感染したのです。

信者は生活現場で希望の光を灯すべきだが…

今の時代において、わたしたちの教会は、イエスを知らない現代社会の人々への「先駆者」となり得ているでしょうか。現代の人びとにとって、教会との出会いが、信者であるわたしたち一人ひとりとの出会いが、救いへの希望となっているのでしょうか。キリストを語り続けている教会が、わたしたち一人ひとりが、出会う人々の心を明るくする光となっているでしょうか。

洗礼者ヨハネの情熱は、今のこの「時代」にどのように浸透し、感染していくでしょうか。教会の2000年余りの歴史の中で、たくさんの体験をし、苦難を乗り越え、多くの聖人を輩出し、そして今、わたしたちの生活現場で、絶えず新たな問題に向かい合っています。

わたしたちが先ず、ヨハネの情熱に感染しないといけませんね。

皆は救いと、それによる安寧と平和を願っていますから、美しく年を取るために、・・。

 

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