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待降節第1主日:キリストの降誕を待つ者は、「わきまえる」ことを知っている

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待降節第1主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

待降節第1主日(A年)の説教=マタイ24・37~44

2022年11月27日

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉があります。

「知らないことは恥をしのんでも積極的に聞いた方が良い」という意味のことわざとなっています。つまり、知らないことを聞くのは無知をさらすようで恥ずかしいかもしれませんが、変なプライドは捨ててそこで聞いておかないと一生知らないままで過ごすことになるので、そのことの方がよほど恥ずかしいし、愚か者がすることであるということです。知らないことを恥じたり知ったかぶりするよりも素直に学んだ方が良い、といった意味のことわざです。(意味解説ノートより)

世の中には、ことわざ等を含め、「ものしり博士」と言われる方がよく身近にいらっしゃるものです。とにかく、いろんなことをたくさんご存知です。そして、このような方と一緒にいると、自分もなんだか「ものしり」になってくるような錯覚に陥ります。思うに、このような人は明らかに「記憶力」が抜群なんだろうなと思います。さらに、頭の回転が速い人、相手の気持ちがよくわかる人、したがって、誰にでもやさしい、親切な人のような気もします。

思いがけない時に来るから、用意しなさい

きょうから待降節に入りました。主の降誕をふさわしく迎える準備をする時間として過ごすようにとの勧めです。ただ単に時間の経過を待つのではなく、主の誕生に向かって外的・内的な備えを高めていくための期間として過ごしましょう。

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現実に、わが子の誕生を前にして、どのような準備をしたでしょうか。より具体的に考え、思い出すことができるのではないでしょうか。どうしても、生まれてくる子ども、まだ見たこともないのに無条件に嬉しくさせてくれる子ども、中心の備えになることでしょう。それだけ誕生が喜ばしく大事なことだからです。

きょうのみ言葉が、わたしたちに訴えている大事なこと、それは漠然としていますが「救いが近づいた」ということです。それがいつなのか、どのような形で来るのか、内容については明らかではありません。また、わたしたちの方から都合の良いようにその時を定めることはもちろんのこと、予想を立てることすらできないのです。イエスは、「人の子が来臨するときは」思いがけない時に来ると語っているだけです。

”いつ”なのかは神の計画。人は知りえない

それは、まったく神の思いの中にある計画であり、業なのです。それはわたしたちの感覚ではとらえることができないので、注意深く待たなければいけないのです。つまり、キリストの降誕を祝う者は、「目覚めて」待たなければいけないのです。

今日の福音書のイエスが語る言葉に心の耳をしっかりと傾けてみましょう。

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」

ノアの洪水では、善人と悪人が神によって区別されています。そして「人の子が来るとき」は、誰が善人でまた悪人なのかは、人の目にはわかりません。人間の目には同じように見えるということです。「一人は連れていかれ、もう一人は残される」というように、人間の目には同じように見えた二人に、やはり、神の見極めによって別々の運命が言い渡されます。

いうまでもなく、わたしたちは少しずつ時間を経て成長します。成熟するまでには時間がかかります。そして、誰でもより善い「自分」を目指しています。外観から見えるところでは中身はわかりません。だから期待も膨らみます。だからこそ、分かってはいることですが焦ったり、無理してはいけないのです。背伸びしてはいけないのです。ゆっくりと成熟していく自分を待つのです。生命の成熟に関してわたしたちは無力だからです。わたしたちの力をはるかに超えた力が、「わたし」の中で働き続けているのです。そこに信頼することが「待つ」ことを可能にしてくれます。

自分の限界を見つめると…”待つ”が可能に

したがって、自分の無力さを、限界をしっかりと見つめるところに、「待つ」という行動が生まれてきます。そうでないとすれば、他者とのかかわりの中に信頼も生まれてきません。できないからこそ、知らないからこそ他人に耳を傾けたくなります。他人を頼りたくなります。そして、さらに謙虚になっていきます。こうして、成長過程における一つひとつの動き、体験がその人を作っていきます。そして「わきまえる」言動が身についていきます。知っていることはそれとして、知らなくても謙虚に耳を傾けることができます。

きょうのイエスの招きは「わきまえていなさい」ということではないかと思うんです。それは、できるふりをしない、知っているふりをしないで、互いの信頼心を高めていくことです。「わきまえ」があれば、たとえどのような場面に遭遇したとしても、賢明な判断と行動ができるようになっていきます。これが「待つ」ことの実りであるとイエスは勧告しているのではないですか。

冒頭に引用したことわざ「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」を今一度じっくりと噛みしめてみたいです。今の「わたし」はわが身をわきまえているでしょうか。

イエスに聞いていますか?

 

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