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王であるキリスト:何気ない「わたし」の行いの中に、イエスは出会いを待っている

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王であるキリスト(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

王であるキリスト(A年)の説教=マタイ25・31~46

2023年11月26日

今日の福音書のテーマは終末の裁きの基準

今日は、年間最後の主日・王であるキリストの日曜日になりました。また、福音書のテーマは世の終わりの時の裁きの基準についてです。誰もが迎えるであろうその日に、神はわたしたち一人ひとりの一生涯を、なにを基準としてはかられるのでしょう。なにが神の前に価値があるのでしょうか。なにが神に嘉され、喜ばれるのでしょう。

若いうちは、この最後の時を想定することはありませんでした。先輩の方々から、必ず来る「時」なんだから今から、若くて元気なうちから「良き死を迎える準備」をしておきなさいよ、とさんざん言われたものです。それこそ、その頃は、先輩からの温かい「忠告」も右の耳から入って左に抜けていたのですね。今になって懐かしく思い出されます。思い出す時をいただいただけでも、これまた恵みですね。感謝です。

若いときは、その未熟さゆえに、ものごとを見る視点、考える内容等、その他の関心事が、年を重ねた今と当然のごとくかなり違います。いい、悪いの問題ではなく、生きてきた歴史がそうさせるのでしょうね。

世の価値基準はそれぞれ、視点でも変わる

やはり視点が変わると、同じような景色も大きく違って見えてくるものです。ひとりのご年配の方・西村美智代さん(69歳)が投稿されています。(南日本新聞2023年11月21日朝刊)

「小学校6年生の孫が10月29日の運動会前に足を骨折し、出場できなくなりました。驚きましたが、『考えようでは一番の思い出になるかも』と思い直して出かけました。孫はスターター係でした。運動会には何十回も行きましたが、二人一組の孫が移動するたびに、私もはじめて校庭を行ったりきたり。 

そして孫の相棒の子の気配りに感動しました。松葉づえを置き、立ち上がってピストルを撃つ孫を心配そうに見守ったり、順番待ちの時も言葉を交わしたり。その優しさに自然に涙がこぼれました。今まで何げなく聞いていた応援の太鼓や笛の音にも気が付きました。・・スムーズな運営を支える先生や児童の姿も目に焼き付きました。

孫がけがをしたおかげで今まで見えていなかった裏方の仕事ぶりもわかり、いい経験になりました。これからも孫たちの運動会にずっと行けるよう元気で頑張ろうと思う一日でした」と。

同じ運動会、出来事でも、見る側の環境、視点が変わってくると、いつもと同じような展開がなされていても、見えた結果にも大きな違いが出てくるものです。でも、この実感を体験するかどうかによって、他者が同じ体験をした時の、その人との納得感が違ってきます。こうした自分に気づくことによって、「いい体験ができた」といって次のステージに上って(成長)いくのではないんでしょうか。

こうしたことは、日頃から誰もが経験しているのですが、それとして意識されていないのが、これまた真実のような気がします。どうしても、人間として価値ある人とは、といわれるとすぐ、どんな業績があって、どれだけの富豪で、どのような社会貢献をした方でしょうか、というように、わたしたちの価値基準は人間的な常識の範囲内の世界観に立っています。

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そういうのであれば、能力のない人、あってもそれを生かす環境にない人、貧しさのためにその働きが制限され、自分の能力を発揮する機会を失っている人、このような人々は価値のない存在者ということでしょうか。ましてや、病気の人、心身に障害を抱えている人などは、まったくもって無視されてしまいます。

神の前に価値があるのは「愛」だけである

しかし、視点を変えてみますと、かなり違った世界がそこに見えてきます。上に示した一般的な価値基準を横において、立ち位置を変えてみましょう。

イエスは、わたしたちの常識的な価値基準に対して、神の前に価値があるのは愛だけであると説教の中で言われます。愛は、その人の心から出るものなので誰にでも可能なことです。能力がある人、そんなに恵まれなかった人など、能力に関係なくすべての人に共通しています。また、その愛の業が大衆の面前なされるとか、目立つものでなくてはならないものでもないのです。身近にいる人、お隣の誰かに微笑んで、その人を励ましてあげられたとか、ごく小さな手助けなど、日常のありきたりのことであってもかまわないのです。また、その業を行っている本人が、価値あることをやっているんだという自覚、意識がなくてもいいのです。

イエスは言います。「 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6章3節)「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17勝10節)と。

愛とは?日常託された任務を果たすときに

イエスが言わんとしていることは、小さな愛の業であっても、人の前で誇りにすこともなく、ただ、当然のことをしたに過ぎない、また、謙虚な素朴な心を願ったとしても、自負心と傲りに毒されないことです、ということではないでしょうか。子どものために、いつもよかれ良かれとして配慮している親、病人のために看護に精を出す医者、看護師、勤めとはいえ、生きた愛がそこにあるから奉仕ができているのだと思います。

つまり、日常において、立場上託された任務、置かれた環境の中で見えてくる任務等、それらをいつものように果たしていくことを通して、イエスに出会っているというわけです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言われる通りです。

お孫さんの運動会での話も、ごく身近な、日常的な出来事の中で起きたエピソードです。それらの積み上げが、わたしたちの最後の決定的な場面で意味を成してくる、というのが、今日のイエスのわたしたちへのメッセージでしょう。

今日もいつものように元気に明るく、そして楽しく生きましょう。

 

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