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年間第30主日:「わたし」のありのままを見てください、主よ!

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年間第30主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

年間第30主日(C年)の聖書=ルカ18・9~14

2022年10月23日

福音が教える祈りのポイントを整理する

  • 先週の福音
    望みをなくさないで祈り続けること
    イエスは先週の日曜日の福音で、「祈り」は、望みをなくさないで願い、祈り続けることが必要であると教えられました。神は、絶えず「祈る人」からその目を背けることはなさらないからです。だから、「絶えず祈る」こと、これがキリスト者の特徴にならなければならないとイエスは勧めています。その先に、神の国の完全な到来があるからです。それまでしばらくの時間があるので、・・。
  • 今日の福音
    祈る人の心と内容について
    そして今日の福音では、その祈りをする人の、心の姿勢並びに祈りの内容を問題にされます。今日も二人の人が登場します。一人は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」ファリサイ派の人、もう一人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈っている徴税人です。
  • いつの時代にも、多かれ少なかれ社会の不正、不合理に苦しむ人々が存在します。特に外国の支配下に置かれる時、その社会の不安定な状況は深刻さを増します。いたるところに、みなしご(孤児)や難民が出現します。中でも社会的弱者は、まともにその影響を被ってしまうのです。

    いまだ解決の糸口が見えない「拉致事件」

    形は違っても、これに近い、感覚的には、それ以上の出来事があると言えます。それは、わたしたち日本人の多くのみなさんが、なかなか解決の糸口すら見えないなと、業を煮やしている事件です。そうです。北朝鮮による「拉致事件」です。

    10月15日、この日は、北朝鮮に拉致された5人の方々が帰国した日に当たります。それは、2002年のことでした。(南日本新聞2022年10月16日朝刊)今年で20年が経ちました。日本政府認定の被害者20人を含む拉致問題は、未だに解決への進展が見られません。

    拉致被害者とその家族の高齢化は深刻

    20年前に帰国した曽我ひとみさん(63歳)は新潟で、「めぐみさん」の早期帰国を願うチャリティーコンサートに出席して講演し、地村保志さん(67歳)は地元福井県で記者会見に臨み、被害者の高齢化を懸念しています。直接に拉致事件に関係のある方々ばかりでなく、日本人一人ひとりにとって「さらに努力して」「諦めないで」被害者の帰国への運動を力強く推進し、多くの力を結集して実現させたいと心から願っています。

    明らかに拉致被害者自身の高齢化は問題です。さらには、被害者の帰りを待つ家族の高齢化は、もっと深刻な状態であると言えるでしょう。弱き者の置かれた立場は、自らをそこから解放できるほどの力を持ち合わせてはいないのです。ただひたすらに、他者の力に頼り、知恵を拝借して前に進むしか道はないのです。そして、その姿に共感して共に歩もうとする人々、これが真の、本来の「人」の姿なのではないかと思います。今日の福音に登場する人、徴税人の心にその姿を感じます。

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    ファリザイ派の人は自分の正しさを神に感謝し、徴税人は自分の罪深さを悲しんで神の「あわれみ」を乞い求めて祈っています。

    ”あわれみを求めた”徴税人が義とされた

    二人の祈りの内容は次のようです。

    ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と。

    一方で、徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」と。

    ファリサイ派の人の祈りの内容から感じられることは、彼の人生はいつも順風満帆であったのでしょうか、そうでない人の生きている姿に対する共感性に乏しいな、ということです。自分の生活が物理的に恵まれすぎているかもしれないんですが、自らの心のうちを見つめれば傷つきやすい弱い自分に気づくのではないでしょうか。でも、そんな自分に気づかない程に、彼の心は、周りの兄弟姉妹に対して全く鈍ったままの冷ややかな「自分」でしかなかったのでした。              

    これに対して徴税人の祈りの内容は、自分の犯した悪を悔いり、恥じて目を天にあげられないほどに自分の弱さを悲しみます。彼は胸を打って自分の行ったすべての行いを心から糾明し、神に告白しています。「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。 深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(詩編51の3~5)という詩編作者の言葉があります。彼はまさにこのような心境だったのでしょう。

    ファリサイ派の人が義とされない理由は

    つまり、ファリサイ派の人が自分の弱さ、傷つきやすさに気づいていれば、他の人の弱さ、もろさに対して、もっとやさしく、デリケートな気配りができていたのではないでしょうか。そのままだと、全てをゆるしてくださる神のあわれみと優しさにも触れることはないしょう。残念なことです。

    実に、祈る人の心構えは、日常の生き方の中にすでに準備されているのです。それは、その人の毎日の「生きる姿勢」にあります。ファリサイ派の人が義とされなかったのは、自分の努力によって弱さを克服しようとし、「自らを頼り」にしたことなのです。自らを「義」とすることはできません。それは神にしかできないことです。なのに、ファリサイ派の人は、神にではなく「自分」にそれを託しました。

    神だけが人を義とすることができる

    わたしたちは、弱く傷つきやすい人間だからこそ、他者の力を、知恵を拝借する姿が見られてもおかしくありません。いつも心のどこかでそうしたいと思っている人ばかりではないでしょうか。

    先に述べた拉致被害者並びにそのご家族の方がたにしてみますと、心身ともに、かなり追い詰められています。自ずと誰かに「頼りたく」なります。これは「逃げ」ではなく、本来の「自分を取り戻す」ことでもあります。それをたどっていった先の究極の場にいるのが「神」です。徴税人が祈ったように神のあわれみに出会いたいのです。

    主よ、罪深く、弱い「わたし」をあわれんでください。

     

    年間第30主日【10月23日】の聖書はこちら

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