年間第29主日(C年)の説教=ルカ18・1~8
2022年10月16日
きょうの福音書では、二人の人物が登場します。一人は「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官です。もう一人はやもめです。そのやもめは「裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」のです。
うるさく何度も訴えれば、裁判官も動く?
男性中心であった当時は、自分を保護する術を知らない、または、そうする財力、知名度も地位もない彼女にしてみれば、その立場は極めて弱いものでした。そうした環境にある人にしてみますと、裁判官の下にしげく足を運び、何回も繰り返しお願いするしか、自分の苦しみから逃れる道はなかったのです。
別の言い方をすれば、やもめは裁判にお願いに行くことの中に、彼女なりの「小さな希望」を抱いていたのです。
いつの時代においても、人間は自らのうちに込められている可能性を信じ、それに託して、これからの生きる道を進もうと決意するものではないでしょうか。特に赤ちゃん、幼い子どもたちの子育てにおいては、胸を膨らませるのではないかと思うのです。何も子どもからのお返しを期待することも無く、ただ子どもたちの成長を期待しながら、心待ちしながら、小さな奉仕を通して、しかし、大きな成果を希望をもって子育てに託すのです。それが、親の楽しみ、喜びでもあるのです。
中学校の”多様な制服導入”経過にもヒント
「『TPOの日』半年かけ実現」という見出しが大きく目に入りました。(南日本新聞2022年10月11日朝刊)
その内容はと言いますと、「女子生徒用のスラックスなど多様性を尊重した制服の導入を目指し」、鹿児島市の鴨池中学校(生徒数約440人)が私服でも登校できる日として実施したものです。いわゆる、時や場所、場合をわきまえた服装選びが重要になってきます。
「その服すごく似合ってる」「改めてみると、制服もいいね」。8日朝は私服や体操服、制服と私服の組み合わせなど、思い思いの服装をした生徒たちがにこやかに言葉を交わし校門をくぐったそうです。
「TPOの日」は、同様の取り組みを導入している大分大学附属中学校とのオンライン意見交換や、身だしなみに細心の注意を払うホテル従業員からの聞き取りを経て、初めて実現させたものです。この日の服装別登校の割合は、私服が57%、制服は19%、体操服は16%でした。
有村忠裕校長は「一部の生徒だけでなく、学校全体で取り組むことに意義がある。いつもより笑顔で明るい子が多かった」と話しています。担当の小泉憲一教諭(43歳)もおっしゃっています。「校則や制服に守られている一面があることも分かった上で検討を進めたい。自分の学校に誇りを持てる子が増えれば」と。
学校全体で試行錯誤を重ねた結果が奏功
「TPOの日」を設け、実施できたこと自体も意義がりますが、それ以上に、生徒を始め教職員みなの意識、感性が広く豊かになってきたということの方が、その意義が大きいように思えます。
「TPOの日」実施を決断開催するために、半年間の準備期間を設け、試行錯誤を重ねて辿りついたのです。忍耐が求められたでしょう。気持ちが折れそうになったこともあったのでしょうか(?!)それでも晴れてその日を迎えることができました。素晴らしい取り組みでした。
イエスの教えは、失望しないで祈るように
「失望しないで祈るように」と今日のイエスは語ります。つまり、希望について語っておられるのです。わたしたちの日々は、確かに希望につつまれた、支えられた毎日であることは否定できないでしょう。物の生産に関しても、そのための準備企画を推し進める精神力にしても、豊作を期待し、希望を持って日々を動いています。それがいくら小さな希望であっても、心明るく元気に前に進んで行くことができるのです。
とはいっても、現実は時として冷酷無比です。善意の人々の小さな夢を壊していくのです。わたしたち一人ひとりに現実を凌駕する力と能力があれば、どんな状況になっても自分の希望を実現することができるのでしょうが、わたしたちは弱い存在です。そこにつけ込んだ悪意に満ちた力が襲ってくることはあっても、好意にみちた援助の手を差し伸べてくれる力を、人を期待することができないのです。仮に、いくら財力があっても、自分の思い通りにすべてを動かすこと、ましてや、人の心を動かすことなどとても難しいことです。
どうすればいいのでしょう。力ある方の助けを借りる以外にその道は開かれないでしょう。やもめはまさにそのような行動に出たのです。その間、幾多の努力を重ねてきた挙句の決断だったのではないでしょうか。彼女の叫びに、裁判官は已む無く立ち上がりました。
反応なく見えても、信じて待ち続けること
わたしたちも、このやもめのように、神に向かって叫びをあげなければいけないでしょう、とイエスはわたしたちに訴えています。神こそが力ある方だからです。しかし、待つことが求められるかもしれない。それでも、信頼しつつ待ちつづけるのです。神はわたしたちが小さい存在でありながらも、滅びることを望まれない方です。わたしたちが願わない先に、わたしたちに何が必要なのかをご存知で、配慮してくださる方なのです。そのような方が、わたしたちがゆきづまっているときに沈黙されるのは、わたしたちにはわからない何か別の考えがあるからなのでしょう。
要は、「信頼しつつ待つ」ことだと、今日の福音書の話はわたしたちに訴えています。わたしたちにとって頼りになる方は神以外にいないということです。このことに支えられているように。
これは、わたしたち一人ひとりの中に込められている可能性です。どうにかして「失望しないで」生きようとする日々のエネルギーです。
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