復活節第4主日(C年)の説教=ヨハネ10・27~30
2022年5月8日
人は寝ても覚めても、心配事がいつもわが身の回りに付き纏うと、心身ともに疲弊してしまいます。少なくとも、からだと心に何らかの影響が出てくるものです。それだけ、ストレスを感じてしまうということでしょう。そして、考えることにも行動することにもその結果が出てきます。それこそ、いつもと違う「わたし」が表現され、変な印象を与え、また、相手を誤解してしまいがちになります。自分にとって、何もいいことはありません。
コロナ、ウクライナが世界の耳目を集めているが…
これらのことは、誰もが日常生活の中で経験していることでありましょう。仮に、別の言い方がゆるされるとすれば、人はその考え方、思いのままに行動しようとすれば、強引にも実行に移すことができるということです。いつもは自制力が働くのに、・・。
今、世界の注目の的になっている出来事、それというのは、新型コロナに変わって、ロシアの「ウクライナ侵攻」が挙げられるでしょうか。報道を見続ける限りでは、どこまでが真実の報道なのか判りかねる時があります。現場での激しい戦いの裏で、情報合戦も火花を散らしている感じがします。今の時代ならではの戦いのあり方なんでしょうか。
それにしても、今の時代だからこそ、こんな「戦争」があっていいの?と言いたくなります。誰もが平和な世の中、安心できる日常、助け合って和やかに暮らしていける日々、これらを願い目指して働き、生きていたいのに、・・。ニュースで流れてくるお年寄り、子どもたちの言葉を聞くと、何も特別なことを求めているわけでもないですよね。ごく平凡な、今までのように何もなくても「穏やかな」生活、太陽の下で元気に動き回る子どもたちの声、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声、全てがごく自然な普通のことです。あの悲惨な、無残にも破壊された建物の隙間に咲いていた瓦礫の中の花一輪。印象的です。
人間は常に他者を必要とし、関係性の中で生きる
人間は、誰にも分っていることでしょうが、基本的には「他者」(相手)をいつも必要としています。よりよく生きるために、そして、もっと成長していくために。そのために、「助け合いの心」は本来身についているわたしたち一人ひとりの「業」であると思っています。その表現の仕方にはいろいろあると思いますが、その具体的な姿を見つけようとすれば身近にあります。
鹿児島県伊佐市大口山野に「ミニストアー山野楽しそう」がオープンしたという話です。(南日本新聞2022年5月1日朝刊) 「高齢者の負担を少しでも軽くしたい」という考え方の下に、健康運動指導士の土生さとみさん(46歳)が、仲間の協力を受け、地域のスーパーとして開店したのです。実は、今まであった地域のスーパーが3月末に閉店したのでした。山野地区は人口約2500人。中心部の山野小学校から大口市街地の最寄スーパーまで約7キロ、車で10分かかります。
そこで、公民館などで体操教室の教師を務める土生さんが、閉店の情報を知り、かつ、住民の「なくなると困る」という声もあって、「高齢者が外に出る機会が減る。健康にもよくない」と出店を決めたということです。幸いにして、閉院した病院の跡地を提供してくれる三浦栄子さん(53歳)の援助を受け、野菜や食品、日用品まで15ほどの事業所が協力を快諾してくださり、開店にこぎつけのです。土生さんは「小さな店だが、モデルケースになって他の地域にも広げられたら」と話しています。
善い牧者は自分の羊を導き、彼らを外敵から守る
きょうの福音書は、善き牧者についての話です。今日の福音の直前には、イエスがメシアであるか否をはっきりさせたいと、気をもむユダヤ人たちが登場しています。そしてこうイエスに迫るのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」これに対してイエスは話されました。それは「わたし」と「わたしの羊」の密接な関係をもって示されています。この関係は、絆は、相互のあり方によって成り立っているのです。「わたしの羊」は「わたし」の声を聞き分け、「わたし」は羊を知っています。そして、羊は「わたし」を信頼し、従い、「わたし」は彼らを導いて、永遠のいのちを与えるのです。
これほどに、羊であるわたしたちは、父と子に大事にされています。かけがえのない存在者として尊く思われているのです。「すべてのものより偉大」な存在者なのです。
それは、「わたしと父とは一つである」からです、とイエスは言われます。「メシア」という言葉は使われていませんが、「わたしと父とは一つである」と断言することによって、自分が神から遣わされたメシアであることを示しています。「一つである」ということの中身を、民に知らせるために、彼らがよくよくわかっている「羊と羊飼い」の関係、絆の話をされたのでしょう。
羊飼いの思いが、羊たちに通じるのは何故か?
もっと言うならば、羊は羊飼いによって守られ、導かれなければ、生きていくことができない動物です。羊飼いの思いは、羊たちに通じるのです。それは、羊飼いが羊のことを一頭一頭の個性までも知り抜いているからなのです。イエスはわたしたちを、そのようによくご存じであるということです。
このような言い方がゆるされるとすれば、それぞれが置かれた立場で「和」のかかわり、必要とされる関係で成り立っているといえないでしょうか。
わたしたちの日常でも、今自分のいる立ち位置、環境をしっかりと確認し、受け止め、助け舟を出したり、受けたりしながらの日々、これが、何も特別ではないが、ごく普通の誰にでもある生活ではないでしょうか。そのことを感謝できる日々が続くといいですね。
あの伊佐市大口山野地区の住民の方がおっしゃっています。「スーパーがなくなり、近所の人たちも困っていた。本当にありがたく元気が出た」ように、喜びの輪が、これまた自然と広がっていきます。新たなプラス面、積極的な生き方が生まれてくるんですね。
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