聖家族(C年)の聖書=ルカ2・41~52
2021年12月26日
今年も最後の主日を迎えました。今週末は新年です。とはいっても、単なる時間の経過じゃないですか、と言われそうですが、そこに何かの意義付けができるのが人間です。否、そうすることが、さらなる成長のために大事になってくるような気がしてなりません。
家族一緒に楽しむラジオ、テレビは今や昔話か
「あ~あ、今年も終わりだな」なんて話していると、ある人がテレビ番組の話を始めました。「最近のテレビはバラエティー番組が多くて、中身も単なる世間話で終わりだよね」と手厳しい。そうなると、「昔は○○だった」という話に落ち着くんですね。そこで出てきた話が。ホームドラマのことでした。番組そのものもですが、観る方も「家族で」一緒に楽しんでいた、というのです。ということは、今はそうした姿が見られないということです。テレビを家族がともに視聴し、語らい、大笑いする姿、懐かししく思い出す人もいるのではないでしょうか。そういうこともあったなぁ~と。
かなり昔のことなので、家庭で、娯楽といえばラジオ、テレビしかなかったじゃない、と言われますとそうだなとなります。それでも、敢えてこだわりますと、かつてNHK第1放送のラジオ番組に「三つの歌」が放送されていました。
聴取者参加型の娯楽番組です。出場者がピアノの伴奏をヒントに曲目を類推し、さらに歌詞を正しく歌えるかを競う、「歌謡クイズ番組」でした。それも、わたしの記憶だと、親子・孫・家族総出で、出演することを楽しみにしていた雰囲気を感じていました。1951年11月2日に特集番組として最初の放送が行われ、1952年1月7日からレギュラー放送を開始。1970年3月30日まで18年3か月間放送されたのです。その間の1953年から1957年まではNHK総合テレビでも同時放送が行われました。
「クイズのスリルと“素人のど自慢”の魅力」の融合に加え、司会・宮田輝アナウンサーと出場者とのユーモラスな会話のやり取りがたちまち人気を博し、常に聴取率ベストテンの上位を占めたとされています。放送開始当初は、公開放送の参加申し込みはがきは毎週1万通以上に達し、地方放送の際の会場使用の申し出も絶えなかったようです。宮田アナウンサーが番組冒頭に決まって行なう「みんなに親しまれた古い歌、だれでも知っている新しい歌……」の口上が親しまれていました。
(ウィキペディア)
「家族」という言葉の響きだけでホットな雰囲気を感じてしまうのはわたしだけでしょうか。家庭での過ごし方が、その人との「人となり」の基礎になっているような気もします。それが社会に出て変化し、豊かになり、多くの人々の役に立てる仕事、奉仕が、その人の成長の実りとして発揮されるようになります。
晴れの神殿詣での帰路、12歳のイエスが不明に
成長の誘因になるのが、お互いの関係性です。今日は「聖家族」の主日です。言うまでもなく、イエス、マリア、ヨセフの家族です。今日の福音書では、成人したイエスの晴れの姿を神の前に示し、社会人として律法を守る生き方をも示す日として、エルサレムの神殿に詣でたのでした。両親として参加したマリアとヨセフにしてみれば、これまた晴れ晴れとした心でいたのではないでしょうか。喜びであり、大きく成長したイエスの姿を見て誇りでもあったのではないかと思います。わたしたちの親がそうであるように。
ところが、その思いも一瞬にして消え去ります。イエスが帰りの道連れの中にいなくなったのです。わたしたちの普通の親子関係で、子どもが行方不明になるということは、親にとって気が動転しそうになってもおかしくないほどの出来事です。マリアもヨセフも探しまわったのです。こうした心情の状態にあった両親にむけられたイエスの言葉は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」というものでした。
マリアは天使ガブリエルから神の告知を受けました。その時、イエスにまつわる出来事を聞いていたのでしょうが、理解できていなかったのでしょう。言葉は聞いたかもしれませんが、言葉によって語られた出来事の意味が分からなかったのです。それでどうしたかといえば、マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」のです。まさに、人間の限界です。限界があるのは致し方ないとしても、その限界に対処する仕方が、その人の生き方を決める決定的な要素になります。というのは、それが限界を乗り越える道となるからです。
理解できなことを「心に納める」マリアに倣う
「心に納める」とは、歴史の背後で働いている神への信頼があって初めて可能となる態度、道であるといえます。それも、日常何気なく起きているできごとを通して、神はその働きを人に知らしめるのです。アリア、ヨセフには、人間的な限界がない特別な人たちだからではなく、あることによって、マリアに「わからないこと」があったおかげで、神への信頼を思い起こすことができたのです。ここに「聖家族」と呼ばれる所以があります。
わたしたちも「聖なる者」と言われるように招かれています。自分たちの限界にすら気づいていないかもしれない、と思うことがあります。別の言い方をすれば、あまりにも楽しいこと、安易なものを求める傾向が強すぎるようなのです。自分一人の楽しみを求めるのではなく、せめて、家族の楽しみを願い、そのために動くことがあれば、限界も見えてくるのかもしれませんね。
「家族」でともに楽しく成長し、慮り、そして、そこに自らを出していければ、少なくとも「自惚れる」ことはないでしょう。身近なところから、そこにこそ「聖なる者」への道が開かれています。
過ぎる一年を神に、人々に感謝し、来る一年に、神の豊かな導きと、祝福と、恵みを願い、祈りましょう。神に感謝。
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