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王であるキリスト:妥協の世界に生きる「わたし」に、働きかける「まことの霊」

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王であるキリスト(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

王であるキリスト(B年)の聖書=ヨハネ18・33b~37

2021年11月21日

外国人研修・技能実習制度の変遷を振り返ると

日本の各地にたくさんの外国人が生活し、留学生がいれば、労働者もいます。その中に「技能実習生」と呼ばれる人々がいます。ご存知のように、「技能実習制度」があって、それは、日本の企業で、母国では習得困難な技能を習得してもらうたに、外国人研修、技能実習制度として開始された制度です。そして、実習生が帰国後に、習得した技能を活かし母国の経済発展に活かしてもらうことを目的としています。

まず、外国人研修・技能実習制度として開始されたのは1993年ですが、「研修」と名が付いていることからも窺えるように、現在よりも「教育」の要素が強い制度でした(1年目は完全に研修期間、そのうち1/3は座学とされていたため、現場での就労を禁止されていました)。技術移転という理念には沿っていたと言えるかもしれませんが、実際には労働をしているにも関わらず、「研修生」だからという理由で労働基準法に抵触するような扱いが平然と行われていることが問題視されるようになりました。

こういった状況を大きく変えたのが、2009年の入管法改正です。在留資格「技能実習」が設けられ、従来の研修期間がなくなったことで、入国当初から「技能実習」が可能となりました。現在の技能実習制度の原型がこの2009年入管法改正によって作られと言えるでしょう。

技能実習生も労働基準法の対象となり日本人労働者と同様に残業も認められるなど技能実習の「労働」の側面がクローズアップされたと言うこともできるかと思います。

(Global HR Magazine)

地域が実習生対象に防災訓練、信頼の絆構築へ

ところで、技能実習生は鹿児島にもいます。この度、大崎町仮宿の町西集落で、地元に住むベトナム人技能実習生を対象にした防災訓練がありました。町西自治公民館と町消防団が協力してはじめて開催。実習生は消火器の使い方や社員寮内の点検に取り組み「安心できた」との声が聞かれたということです。(南日本新聞2021年11月14日朝刊)

公民館が毎年実施する訓練の一環で、実習生8人が参加しました。実習生は消防団員の手ほどきを受けながら、消火器の使い方を実践。寮内では、公民館長の萩原洋一さん(66歳)が作ったベトナム語も入った避難経路図や緊急連絡先、非常時の持ち出し品リストを記した張り紙を再確認していました。実習生のグェン・ティ・ゴック・チャムさん(20歳)は「消火器の使い方もわかり安心できた。今日学んだことを生かしたい」とほっとした表情。

萩原さんは「地域と実習生が信頼関係をつくるのが大切。こうした取り組みが広がっていけば」と話しています。人であれば、誰もが望むであろう安心安全を享受するその先に、本来の人の生き方が展開されていくのではないでしょうか。それは、虚栄、野心、欲望、バリアから解放された人の生き方です。「天国の姿?」でしょうか。

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今日は年間最後の主日です。

真理にはほど遠い妥協の連続の日々であっても

イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と、ピラトの前で宣言なさいます。ピラトにとって、彼の最大の関心事は「ローマへの政治的な反乱を未然に防ぐこと」でした。このことには細心の注意を払ったでしょうが、それ以外のことに関してはほとんど興味を持たなかったのではないでしょうか。

わたしたちが生きている原動力になっているものは何でしょうか。今日の福音書に出てくるユダヤの司祭長、長老、律法学者たちにとって、守ろうとしているもの、それは、自分たちの勢力であり繁栄です。ピラトにしてみても、官邸の内外を何度も行き来しています。ユダヤ人たちの訴えに対して、イエスの無罪を分かりつつ助けたいという気持ちの表れなのか、この処刑には関与したくないという迷惑感の反応なのか。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」という態度には、「迷惑しているんだ」と言いそうなピラトの思いが透けて見えるようです。

今のわたしたちの大半もそうであるように、彼らも自分たちのわがまま、欲望、野心、感情が言動の原点にあるといえます。人を心から突き動かす力になっているのは「真理」のあかしのためなどではないのです。現実に妥協して生きるしかその道はないのです。わたしたちも崇高な志を抱いて出発しても、途中挫折してしまうと、その現実を前にして、妥協の繰り返しが続いてしまいます。

日々の出会いを通して「心理の霊」を感じたい

言い換えると、わたしたち「凡人」が見ているものは、神を無視した世界の繫栄であり、それを求めて手段を選ばない世界です。ずるい妥協を繰り返す日々なのです。「真理の世界」から見ると「虚偽の世界」です。わかっているのに脱却できないのです。

それでも、イエスは真理をあかすためにすべてをかけられました。そこに、真の人間の救いがあることを示すためです。

その「示し」に気づくかもしれないヒントが、わたしたちの身の回りにはたくさんあります。つまり、「もの」に向かうのではなく、「人」に向かうのです。外国人とともに地域防災に取り組んでいる姿のなかに、国と民族を超え、利害、損得とは無関係な信頼関係が養われ、「安心できる」世界が構築されていきます。人の世界の話ですから完璧とはいかないまでも、「まことの神」、つまり、約束を必ず守る、信頼できる神に出合うことはできるでしょう。その時「天国の姿」、救われた「わたし」の姿に出合えるのではないですか。

だって「真理の霊」(ヨハネ14章17節)、弁護者が、わたしたち一人ひとりに働いてくれているからです。このことをイエスはあかししたいのです。

「わたし」は日々、人との出会いを通して、その中に感じているでしょうか。

 

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