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復活節第5主日:自らに問うてみよう!コロナ禍で何を学んでいるか?

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復活節第5主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

復活節第5主日(B年)の説教=ヨハネ15・1~8

2021年5月2日

人類がいのちを保有し、生きていく限り、その生活はますます便利になり、ある時までは常識的な生活習慣だったもの、ことが衰えて姿を消し、もっと見た目もよくスマートな生き方が取って代わっていくことになるのでしょう。それが、過去の歴史の事実体験を生かした、人間の賢さ、技術、開発というものなんでしょうか。

世界中の人々はコロナ禍で何を学んでいるか

でも、便利さ、快適さを求め続ける一方で、なにがしかのものが欠落していくのも人類歴史の教訓ではないんでしょうか。人はその歴史から生きるための知恵を学ぶのでしょうが、その知恵がどこかに置き去りにされてしまってはいないでしょうか。否、恣意的にないがしろにされているような気がしてなりません。

 毎年、○○記念祭と称して祭事を行ないます。その出来事から何かを学んでいるからこそ挙行するのであって、その中身がその後の生活の中で生かされていますか?と言われると、それぞれに思い当たる節があります。

今、世界中の人々はコロナ禍にあって何を学んでいるのでしょうか。「しかたないな~」という思いで現状を受け入れているのか、「何か工夫しないと、・・」という思いで現状を受け入れ、過ごしているのかによって、その結果はかなりの違いが生じるのではないでしょうか。

「量り売り」が復活し始めた理由を考えると

むかし懐かしい表現を見つけました。「量り売り」という言葉です。(南日本新聞2021年4月26日朝刊)この言葉を見てすぐに思い出したのが、酒の量り売りでした。その昔、父親が飲む酒は、一升瓶、五合瓶では買えなくて、よく買いに行かされたなということです。その時の酒販売が「量り売り」だったのです。また、そのお店にはよく「立ち飲み客」がいましたね。店頭での飲みかわしは普通でした。仕事帰りのおじさんたちが、コップ一杯いくらといって「一杯ひっかけていく」絶好の場所、時間にもなっていたんですね。

注目される持続可能な社会への取り組み

新型コロナウイルス感染予防対策を考えるときに、提起された販売方法だったのかどうかわかりませんが、人や地球環境に配慮した持続可能な取り組み(SDGs)として注目されているのだそうです。

鹿児島市では洗剤、この他に、感染防止対策で使う次亜塩素酸水などが販売されています。必要な分だけ購入でき、容器を持参・リサイクルすることで、ごみ削減につながり消費者から支持を得ているといいます。

利用者にとって、「量り売り」の最大の特典は、何といっても欲しい量だけを購入できるということです。無駄を省けますし、独身者などにはとても人気なのです。しかも、酒類の量り売りも登場しました。酒場の「飲み屋」さんなどでは、通常は店内で飲む酒は販売できても、持ち帰り用としては売ることはできません。国税庁がコロナ下の飲食店の経営を支援しようと、在庫の酒類を持ち帰り販売できる期間限定免許を新設したことで量り売りが可能になりました。「ボトルでは手に入りにくい銘柄を少量楽しむ際も便利なようだ」と話すのは、免許を取得したオーナーソムリエの大薗博隆さん(50歳)です。

あらゆる繋がりを注意深く観察してみると…

社会で見られる事件、出来事は人が関与しているからこそ起きるものだということができます。その度に、人は何かを学習し知恵がつき、より簡単で便利な、そして、より楽になり、もっと楽しい生き方を追求していけるように、その歴史から多くのことを身につけてきました。

その生き方の中で求められるのが、人との繋がりです。しかも、そのあり方が一番大事にされてきたはずなんでしょうが、・・。そして、学びの結果が、「簡単にでき、便利に、楽に」なることだけに関心が集まると、実は、何か重大な、もっと必要なことを置き忘れていることに気づかないのです。それは「繋がり」の中身によると思います。わたしたちの日常は、人との繋がりの中で育まれていくからです。つながり続けていたいと思う相手なのかどうかによって、そこから学ぶ中身が変わります。

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826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

イエスは今日、「わたしにつながっていなさい」と呼びかけます。 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と、ご自分につながっていることの効果を示し、繋がり続けるように勧めます。イエスにつながり続けてきたであろう弟子たちに向かって、重ねてイエスは訴えるのです。

目指すべきは、自己都合を乗り越えた繋がり

ブドウの木とその枝の話は、最後の晩餐での話でした。この後には、あの十字架の刑を受ける裁判が待っていたのです。それは、弟子たちにとっては彼らの弱さが暴露されるときであり、彼ら自身にもそれは隠されていたのでした。その現実に弟子たち自身は気づくことになったのです。それまでイエスについてきたのに、この度はついていけない自分たちの信仰の弱さ、人間的な弱さがさらけ出されたのでした。すべてが「~のつもり・・」だった自分に気づかされるのです。自負と自信が、あっという間に崩れ落ちてしまいました。

自分に都合のいいことだけに満足していたのでは、本来の「自分」にはなれないのです。もっと深いイエスとのかかわりに目覚めるために、イエスに「繋がっていく」必要があるというメッセージをイエス自らが、今日、わたしたち一人ひとりに語り、招かれています。

過去の歴史から学ぶこと、それは、人と物の利便性だけでなく、人本来のかかわりに、もっと目覚めることでしょう。打算的ではなく、誠実に・・・。「量り売り」の根底に横たわっているのは、「人の密を避けましょう」というコロナ禍の対策から学んだこと、それは誠実な「人との交わり」に戻りましょう、という人本来の生き方ではないんでしょうか。

 

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