復活節第3主日(B年)の聖書=ルカ24・35~48
2021年4月18日
「死者からの復活」、これはわたしたち人間世界の常識では、とうてい考えられないできごとです。たとえ、時代がすすみ、たくさんの不思議さが解明されるようになったとしても、「復活」のできごとから、わたしたち人間の戸惑いと疑問がなくなることはないのではないでしょうか。しかし、歴史上のできごとなのです。イスラエルの信仰は、その具体的な歴史の中で育ってきたのです。この体験は大きく、信仰の育ちに多大な影響を与えています。
「死者からの復活」は信じがたいことだが
確かに、「復活」は信じにくいできごとです。しかし、だからといって、無視したり、勝手に創作したりすることはできません。事実、キリスト教の教えをその生きる糧としているキリスト教徒のみなさんにしてみれば、イエスの復活なくしてその信仰は考えられないことです。そもそも、信じている意味がなくなってしまうのです。
今、日本社会はあちらこちらで入学式のめでたい式典が相次いでいます。本年も新型コロナ禍にあって、さまざまな工夫を施し、新しい発想を取り入れながら入学式が開催されています。幼稚園時代にたくさんの方が歌った覚えがあると思いますが、「一年生になったら・・」という歌があります。その歌詞に「友だち百人できるかな・・」と。その内容をよく見ますと、とんでもない、実現しそうもない夢物語だなと感じてしまいます。「‥百人で食べたいな富士山の上でおにぎりを、・・、・・百人で笑いたいな世界中をふるわせて・・」と。歌っている子どもたち自身、意味が分かっているのかどうかは別として、「仲間と一緒に」楽しみ、苦労し、活動しようという心が、にじみ出ているような気がしてなりません。仲間は大事なのです。
まさか!のことが実現することもある
鹿児島県姶良市東餅田の建昌小学校では、今年、前年よりも2割超増加で96人の新一年生が入学したそうです。(南日本新聞2021年4月13日朝刊) その入学式は、新型コロナウイルス感染拡大防止のために、もちろんのこと児童の座席間隔をあけ、保護者の参加をそれぞれ二人に限定したということです。また、来賓として出席した湯本敏浩市長やPTA会長のあいさつも文書で配布。国歌や校歌は斉唱せず、CD録音を静聴したのだそうです。
友だちがいっぱい欲しいのであれば、たくさんの人が必要です。それも、同年齢の仲間だけでなく、年齢が上の人下の人など、いろんな環境で育った人がいると、より豊かな「自分」を目指すことができます。共同体というものは、そういう意味で、人の育ちのために必要な存在であると思っています。
いろいろな人がいる(共同体)という特典は、次のような出来事からもわかるような気がします。
奄美の竜郷町の秋名小学校の入学式の話です。その式に12名の保護者全員が大島紬を着て参加したというのです。産地に住みながら身につけたことのない楠元直樹さん(37歳)が、紬姿での参加を思いついたのがきっかけでした。(同上紙)
それに続いて、妻の奈津紀さん(32歳)も「子どもが触れる機会にもなる」と他の保護者にも声をかけて実現したのです。色とりどりの紬姿が並んだ会場は華やかな雰囲気に包まれ、子どもたちも凛とした親の姿を見て誇らしげだったということです。「軽くて動きやすい」と直樹さんは実感していました。また、他の参加者も、肌触りのよさや柄の美しさなど紬の魅力を実感していたようでした。今回は地元の織元さんのご支援をいただいて、無料レンタルだったそうです。生産が低迷する紬業界において、こうしたイベントを通して、通常に着こなしていけるようになれば、伝統文化の継承とともに、多くの人に広く愛される紬になっていくのではないでしょうか。
弟子たちの変貌は作り話では説明できない
今日の福音書の弟子たちに対して、イエスは「強い」弟子たちの姿を告知しています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる」と。
弟子たちは過去においても、イエスが現れたこの時にも「弱い」ままでした。ふつうの人間と同じような姿だったのです。イエスの教えを何回聴いても、理解ができなかった弟子たちが、結束して信仰に燃え強い弟子たちへと変貌していったのです。そして、教会が誕生したのです。この事実から、主の復活を認めざるを得ないのではないでしょうか。作り話では、弟子たちの変貌ぶりを説明できないでしょう。
復活したイエスに出会い、励まされたから
さらに、復活したイエスは弟子たちを安心させ、その心をひらかせ、ご自分の神秘をわからせようとして語り掛けておられます。つまり、弟子たちを勇気づけ、雄々しく福音を宣べ伝える人になれということを示されたのです。その結果、教会をたてる意図もあったということがうかがえます。すべての人をイエスに会わせるために。
したがって、今の教会の原点は復活にあります。イエスはあくまでも使徒団として弟子たちをお召しになりました。したがって、わたしたちは共同体の中で励まし、ともに豊かになっていくのです。個々的な動きをしていたとしても、・・。
「わたし」という個人は、いつも他者に開かれています。そして、ともに歩み続けていくのです。
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