主の公現(B年)の説教=マタイ2・1~12
2021年1月3日
異常気象と言われる中にあっても、確実に季節は廻り、今、冬の真っただ中にあります。
かつて手にした「雑学」本の情報から
ところで、かつてわたしは、新型コロナウイルス感染症があらわれる前、飛行機や新幹線を使って旅行とか出張をしていました。待ち時間とか目的地までの時間がかかりますので、その合間に、しばしば「雑学」の本などを読んでいました。その中には、寿命、長生き、医療等、いのちに関するものがたくさんあります。そして今、コロナ感染症の一年間で、いのちについての関心が、今までとは違った意識で見られているのではないかと感じています。
そこで、わたしは当時の雑学の本を引っ張り出して見てみました。「知ると行ってみたくなる雑学」の項で、「『女性』は沖縄、『男性』は長野が長寿県日本一」なんだそうです。(「おとなの雑学」王様文庫)
長寿県日本一 女性は沖縄、男性は長野
沖縄の日本一はなんとなく納得できるとしても、冬は極寒の長野が一番とは、にわかに信じがたくはありませんか。しかも、女性も3位だといいます。どうして信じがたいのかといえば、寒冷地の人々はどちらかといえば、塩分の摂取量が他の地域の人々よりも多いと聞きます。それで、脳卒中での死亡率が高かったのです。そのことを憂えた行政は、保険補導員による栄養指導を行うなど、健康問題に取り組み、現在の地位を確保したのだそうです。しかも、一人当たりの老人医療費が全国最低という健康優良県でもあるということです。理想的な長寿のあり方を実現している県ではないかと、同書は結んでいます。
今日は公現の主日です。東の国から王を探し求めて三人の訪問客がエルサレムにやってきます。この訪問者たちは原文ではマギと呼ばれています。マギとは魔術師、占星術師のことで、東方では博士でしょうが、エルサレムでは偶像礼拝者にすぎません。そして、異邦人です。
東方からの訪問は、危険を覚悟のうえ
その彼らが、強大なローマ帝国やヘロデの存在に無知であったわけではないでしょう。知りつつも敢えてエルサレムを訪問したということは何を意味するのでしょう。つまり、当時の治世、ローマ帝国歴代の皇帝並びにヘロデ王が、優れた指導者であったとはいっても、彼らは真実の王、メシアの姿を生きていないということを見抜いていたのではないでしょうか。だからこそ、危険を覚悟してでも訪問せざるを得ない気持ちになり、実行したのでしょう。
東方からの旅、それは、自分たちの全存在を託するに値する真のメシアを求めての旅だったのです。真の平安と平和と喜びを、さらには希望を求め願っての旅だったのです。その彼らは異邦人でした。しかも占星術師で、ユダヤ人からすると異邦人の中でも最低の、最悪の罪人の仲間でした。
マタイ福音書では、こうした異邦人やユダヤ人たちに軽蔑されていた人々とイエスの出会いが、しばしば描かれています。カナンの女(マタイ15章21節以下)、百人隊長(マタイ8章5節以下)、徴税人(マタイ9章9節以下)等、メシアに出会える人々とは、真に飢え、疲れ、渇きを覚え、貧しくへりくだっている人々のことなのです。東方の博士たちは、まさに、こうした人々の代表としての出会いであったといえます。今でもそうですが、神はこうした人々を密かに招き、導かれるのです。
旅人を導いた星はすべての人の上にも
東方の訪問者たちを導いたのは空の星でした。夜空の星は、何処にいてもどんな場所からでも、誰もが眺め見ることができます。老若男女、金持ち貧乏、才能ある無しに関係なく、すべての人に平等にひかり照らしてくれる夜の道標(みちしるべ)なのです。それは、神からのわたしたちへの呼びかけでもありました。
ところが、多くの人はその呼びかけに気づかないのです。素早く気づき反応したのが、羊飼いであり、東方の博士たちだったのです。また、気づいたとしても、別の光、その目映さに圧倒されて、別の光にひきずられてしまうのです。
それに反して、東方からの訪問者たちは、当時のエルサレム治世の状態から考えても、「飛んで火に入る夏の虫」のような旅を敢えて挙行したのです。この言い伝えは、夏の虫が火の明るさにひかれて寄ってきて、火に飛び込んで死ぬことから、自分からすすんで危険や災難に関わり合って身を滅ぼすことのたとえとなっています。
信念のもとに恐れるものなしの姿勢で
つまり、当時は、ローマ帝国の力に酔いしれている時代です。したがって、皇帝に対する批判はゆるされていない厳しさがありました。また、ユダヤにはヘロデ王がいました。ローマ皇帝の政治力等を背景に、パレスティナに絶大な権力を有していました。なのに、東方からの訪問者は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と尋ねるのです。最も避けるべき質問であり、人物に対してぶっつけたのでした。
この行為そのものに、訪問者たちの本音が垣間見えます。つまり、現世の王たちは、真の平安と平和をもたらし、救いを保証する人たちではないということ。その信念の前には、恐れる者は無くなったということでしょう。
長野県の長寿の人たちの真の目標は、一人ひとりに託された人生の信念を全うするために、ということではなかったのでしょうか。彼らは、人生の終焉を迎える直前まで元気に過ごしたのだそうです。
新しい年が始まりました。日々の歩みの中に、真の自分の姿を見誤ることなく求めましょう。そこには、前に進む力と勇気が、いつも備えられています。そのことを自分の中に、そして、身近なところで、そして、実感できることは何でしょう。
新しいわたしのいのちの輝きを、日々求め続けましょう。
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