年間第19主日(C年)の説教=ルカ12・32~48
2019年8月11日
年齢を重ねていきながら感じることがあります。人間は、心と体のバランスを保つのがいかに大事であるのか、ということです。ちょっとした何かのきっかけで、心の平静さをなくし、それが肉体的にも影響し、おかしくなって現れてくるのです。肉体的な若さが失われてくるにつれて、心の若さもなくなっていくのでしょうか。
こんなはずではなかった!が増えてきた
「こんなはずじゃなかった」ということが、多くなってきた気がする、と感じられる方はいらっしゃいませんか。若い時には思いもしなかったことが気になったり、逆に、気になっていたことが年とともになくなっていたりと、何かが作用しているんですね。
でも、これが現実であれば、そのまま受け入れていくことが賢明であろうと思いますが、・・。それでも、年齢に応じた役割がなくなっていくわけではありません。生きている限り、その年齢に応じて、一人ひとりに何かが託されているのです。「生きている」ということは、そういうことでもあると思うのです。年を重ねて、周りの若い人たちに邪魔扱いされそうになったとしても、その中でやらなければいけないことがあるでしょう。それが家族であり、誰もが辿る道なのではないでしょうか。
その一つかなと思われることがあります。それは「善き死を願う祈り」です。誰もが迎える「死」、避けて通ることができません。ならば、「善き最期を願う」ことはみなの望みであり、祈りにならなくてはいけないのではないでしょうか。そうあってほしいなと思います。若い頃に言われても、確かに実感が伴いませんでした。しなければいけないこと、やりたいことが眼前に迫っていると、どうしても、そちらの方に体も心も向いてしまうのです。そして、「今の若い自分には差し迫ったことでもない」なんて考え、受け止めようとも思わなかった気がします。でも、「死」は年齢と関係はないんですよね。分かっていることなんですが、・・。
イエスが教える人の品格に適う生き方は
やはり大事なことは、日常の生き方、普段に生きる心構えといえそうです。何も気難しく考えているのではなく、人として考えたときに「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言えることではないかと思うんですよ。また、あまりにも利己的な生き方、考え方に固執しますと、「孤立」がその先に待っているのではないでしょうか。
今日の福音で、イエスがおっしゃりたいことは、人として、その品格に適った生き方は何でしょうかということのように思います。そのような生き方を追求する時に、どうしても一般常識の力に押し切られ、潰されそうになることだって考えられますし、実際に、そのような体験をすることがあります。
イエスは常識的でない極端な話をしたが
だからこそ、イエスは「常識」では考えられないような、極端な話をもって弟子たちを元気づけられるのです。弟子たちのグループは、人間的に見て、知恵のあるものは多くなく、高い地位にある者もなく、したがって、社会的に権力ある者もいない集まりです。まさに「小さき群れ」なのです。
しかし「小さき群れ」でありながらも、勇気ある行動に出なくてはいけないからこそ、イエスは励まされるのです。「あなた方の傍らには、あなた方に心を配って下さる父がおいでになるんだよ。だから、あなた方の生き方を世の人々に見せなさい」と後押しなさいます。大きな影響を与える行動、それは「持ち物を売り、貧しい人に施しなさい」という実践でした。これによって、弟子たちが神を求めて生きている、神だけに向かっていることを見せるためには、説得力あることでした。自分たちの名声を求めて行動するのでもなく、自分たちが、既成勢力に立ち向かい、優位になろうとしているのでもなく、イエスのために、自分たちのすべてを捧げ尽くしてこそ、仲間の輪が広く、大きくなっていくのです。そこに、教会が誕生してきたのです。弟子たちの生涯を賭しての証しでした。
話の根底は、神は見ているという励まし
今に生きるわたしたちが、まったく「イエスのために」と積極的になれなかったとしても、少なくとも、「自分のために」という利己性を越えて行こうとするその先に、「イエス」が見えてくるのではないでしょうか。きっとそうです。「父は、あなた方にみ国を与えるのを喜びとされる」からです。神との交わりへすでに招待されているのです。すでにその交わりは始まっていますが、未だ完璧ではありません。実感がないのです。
きょう福音に登場する話の根底にあるものは、弟子たち、今のわたしたちへの励ましの言葉です。神がわたしたちの言動を保証してくださることを示すために、極端なまでの話をされたのでしょう。どんな状況にあっても、神は見ていてくださっていますということです。このことを日頃から感じているでしょうか。感じましょうよ、という励ましです。
極端なまでの状況に陥ったときに、神を思い出しますか。その時は、どのような神でしょうか。嘆き節を囁きますか、叫びますか。くどくどと愚痴りますか、願いますか。
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