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年間第25主日:偉大な人、魅力的な人は、自分の過ちに目をつぶらない

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第25主日(B年)の説教=マルコ9・30~37

2018年9月23日

フィリピンで生活して知った「日本」の行為

随分と以前から思っていたことです。わたしの認識不足かもしれませんが、日本の学校教育課程の中で、「歴史」についての教育プログラムが貧しいのではないかという気がするんです。

かなり前の話になりますが、フィリピンで生活する機会をいただきました。現地の職場で仕事に就き、当然のことながら、現地、フィリピンの人との交わりのチャンスがありました。ある日、レガスピという町に3泊し、日常の彼らとともに、生活の一面を体験する機会をいただいたのです。

日本企業が漁場を買い上げて、漁ができない

お世話になった家族は、決して裕福な生活を送っているわけではありませんでしたが、わたしに対して精一杯のおもてなしをしてくださるのです。一匹の大きな魚をフライにしてご馳走を出してくれました。ご高齢のご主人曰く。「普段、わたしたちは大きな魚一匹を食べることはできません。だって、自由に魚を捕ることができないのです。近くのいい漁場で漁をすることに、政府から許可が出ないのです」「どうしてですか」「日本の業者がフィリピン政府から金銭で、その漁場を買い占めているからなのです」と。これは戦時中の話ではありません。彼らの貧困、苦しい日々の連続の一つの原因が、わたしたち日本の国にあったのです。

戦時中、日本軍が銃剣で乳飲み子を試し切り

食事をしながら、いろいろな話をしてくれました。特に記憶に残っている話は、戦時中のできごとでした。「この地(レガスピ)にも日本軍が攻め寄せてきました。そして無残なことをされたのです。なんと、まだ乳吞み児を、『銃剣の試し切り』といって、空中に投げ上げて刺す、ということを繰り返したのです」。この話には何の言葉も返すことができませんでした。

この二つの話をうかがって、わたしは頭を下げて、心からお詫びするしか術を知りませんでした。ただ、「日本兵のすべての人がそうしたのではありません。中には、わたしたちに優しく振舞ってくれた方も、もちろんいたんですよ」との言葉に、多少安ど感を抱いたのも事実です。

マレーシア人スタッフからもきつい言葉を聞いた

そういえば、わたしと同じ職場で、マレーシアからのスタッフも一緒に働いていたのですが、彼女に言われました。「戦時中に日本軍が自分たちにしたことはゆるすが、決して忘れない」と。この言葉もとてもきつかったですね。

過ちを素直に見つめない歴史教育の貧弱さ

これらの話は、過去の歴史上の事実です。その時代に生きた日本人が少なくなっていく中で、歴史上の現実が語り継がれないで過ぎていくのでしょうか。悲惨なできごとは誰でも忘れたいものです。だからといって、歴史をまげて伝えたり、省いたりしていいものでしょうか。わたしがアジアの現地に行って初めて知ったことでした。

過去のこうした出来事があったから、その反省と教訓の上に、今の日本は立ち上がったのではないんでしょうか。といいながらも、過去の過ちの中にしっかりととどまり切れて来たのでしょうか。「歴史教育」の視点から見たときに、何かしら貧弱さを感じてしまうのはわたしだけでしょうか。

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今日の福音に登場する弟子たちの魅力は、まさにここにあります。つまり、福音書の中では、弟子たちの愚かさや失敗、彼らの弱さなどから目をそらすことなく、彼らのありのままを伝えています。特に美化することもありません。

弟子たちは誰が一番偉いのかと論じ合ったが

今日の福音書の話は、彼らのその姿を伝えています。「だれが一番偉いのか」という、弟子たちの道すがらの議論です。お互い、野心と慢心が入り混じって議論にも熱が入ったようです。わたしたちと同じような話題と行いで衝突したり、醜さをもっている弟子たちをうかがい知ることができます。

しかも、人々のゆるしと幸せのために、ご自分を捧げようとされるイエスさまと比較することによって、弟子たちのあさましさが浮き彫りにされているようです。しかし、弟子たちの感心なところは、そうした自分たちをしっかりと認識し、自覚していることです。イエスさまのもとからいったんは逃げ出すも、最後は戻ってきたことを見れば分かります。自分たちの過去の過ち、ふがいなさを隠すことなく、一時的には後ろ指をさされることがあったとしても、イエスさまのもとに帰ります。

自分の弱さを認め、イエスの元に戻ってきた

そうすることによって、イエスさまのさらなる優しさに触れ、愛ある導きに出会うことになりました。いつの間にか、イエスさまの後継者としての役割を継ぎ、イエスさまからの愛につつまれ、もっと魅力ある存在者となっていったのでした。

わたしたちの「人間」としての魅力は、神からの裏付けがあって初めて、真の魅力になっていくのでしょう。わたしたちの信仰者としての内面的、外面的な怠慢生活も、もしあるとすれば、正直に見つめ、認めることによって新たな道が開けます。12使徒がそうであったように。

「おまえはわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ」(コリントの人々への第二の手紙12章9節)

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