四旬節第2主日の説教=マタイ17・1~9
2017年3月12日
「隠されているもので露にされないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない」(マルコ4章22節)。
昨今の国民注目の出来事には、健全で賢明な判断を
日本国内で、現在、国民の注目の的になっている出来事は、なんといいましても、ある学校法人の小学校開校に関する動きではないでしょうか。次々と秘められていた事実が明るみに出てきました。どこまでが本当で、何が虚偽なのか、たくさんのことが錯綜していて、わたしたちにも健全な心と、賢明な判断が必要となってくるような気がします。
この問題の本当の被害者は、子どもたちではないか
軽々に語ることはできませんが、本当の被害者は、はたして誰なんでしょうか。多少なりとも、幼児教育現場に身を置かしていただいたわたしの感覚から言わせていただきますと、子どもたちではないかと思っているんですが、・・。何事も、いつの日か、公の場にさらされてしまうようになるんですね。
この事件を知って、わたしたち一人ひとりの思い入れは異なるでしょうが、学校が、幼稚園が「教育現場」の大事な一ステージであることを考えますと、大人の、教育当事者の「子育て理念」は大事になってきます。在園児、在校生一人ひとりの人生の将来に、影響を及ぼすからです。
子どもの感性は、大人の常識を超えて素晴らしい
いつの時代も、子どもは大人の常識を超えた素晴らしい感性を備えています。年を重ねるにしたがい、その研ぎ澄まされた感覚が次第に衰えていくのです。実にさびしいかぎりです。どうしてでしょうか。幼少期の子育てがいかに大事で、時代の流れの中で「子育て」そのものも、よりよく変化していく必要があるということではないでしょうか。家庭での子育て、学校での子育て、地域における子育ての中で、子ども時代に培われてきたものが、やがて花開くときが来ます。必ず、秘められた教育の中身が外に現れるのです。
イエスのまばゆい姿は、神の世界の特徴を示している
今日の福音で、イエスさまは弟子たちの前で、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」ご自分の姿をお示しになりました。この姿は、神の世界の特徴を示しており、それは汚れのなさのしるしであります。同時に、世の汚れからかけ離れた清浄な世界をも示しています。重荷を背負い、労苦して汗まみれになって働いて生きるわたしたちにとっては、願ってもない環境です。
変容を目にしたペトロは、この世的な発想を元に動いた
こうした現象を、ペトロはこの世的な発想に立って判断し、語りだします。それがペトロの育ちでした。すなはち、ペトロがイエスさまと出会うまでに育ってきた環境から生まれた発想であり、感性だったといえます。
今のわたしたちも同じことが言えるのではないでしょうか。信仰者の共同体の仲間入りをしたとはいえ、それまでに育った環境から受けた影響は、そう簡単に薄れるものではないでしょう。
ペトロのこの世的な考え方は、今の私たちにもあるのでは?
ペトロは、できれば苦しみや悲しみのないその時の世界(主の変容)を、ずっと維持しておきたかった思いに駆られたのではないでしょうか。「ここに三つの仮の庵をつくりましょう」と言ってしまいました。いわば、至福の思いを体験をしていたのでしょう。
「変容」は日頃のイエスさまの姿に見たことのない初めての体験だったはずです。いつもは秘められているイエスさまの真の姿が露にされたのです。しかも、ペトロは「自分で言っていることが分かっていなかった」(ルカ9章33節)のですから。しかし、その環境にだけとどまっていては、真の弟子ではありえない、と言われます。
イエスの真の弟子は、地上的な幸せだけを求めるのではない
今、真の姿(栄光に輝くイエス)を見せることによって、その後の弟子たちを内的に励まし、地上的な幸せだけを求めるのではなく、その奥にある真の輝きに目覚めるようにと、ご自分が十字架への道を辿る前に示されたのです。
「わたし」の日常で、あっと驚く、励まされる「暴露出会い」はありませんかね。あるとすれば、イエスさまの招きです。ご自分の歩まれた道に、わたしたちが自分の人生を合わせることを求められるイエスさまが、今日、呼びかけられます。「あなたは、真のわたしの弟子ですか?」
コメント