年間第26主日(A年)の説教=マタイ21・28~32
2017年10月1日
若者が挑戦する、ある二つの大会が京都府内で開催されました。一つは、「少年の主張府大会」で、一つは「全国高校ビブリオバトル府大会」です。
表現力を競う京都府の二つの少年の大会から
主張大会では、体験発表者は対象が中学生でした。発表内容は、日常の体験の中から家族や障害者、伝統文化などをテーマに、一人5分の持ち時間で、熱弁をふるったということです。府内から2,890人の応募があり、事前審査を通過した15人が本大会に臨みました。
「言葉の壁に悩んだが、同級生らの支えで部活などに積極的に取り組むようになったといい、『わたしは日本とフィリピンのダブルです』と胸を張って言いたい」と述べた、日本人の父とフィリピン人の母を持つ中山ルーナさん(15歳)が府知事賞を受賞し、全国大会に推薦されました。
もう一つの大会は耳慣れない、わたしにとりましては、初めて聞く大会です。どのような大会内容かといいますと、高校生がお薦めの本を紹介する書評合戦だということです。京都府大会の開催は初めてで、府内11高の15人が出場しました。一人5分の持ち時間で、愛読書の魅力をPRし、聴衆約30人が最も読みたい本に投票するといったやり方です。優勝したのは辻本匠さん(16歳)で、彼は「優勝できたのは本の魅力のおかげ。全国大会ではもっと伝わるスピーチをしたい」と話していました。(讀賣新聞大阪本社、2017年9月25日朝刊)
言葉も生きています。今の時代だからこそ、たくさんの新たな言葉が次から次へと誕生してきます。「携帯」「スマホ」など、メール、ラインを通して交換されるメッセージ用語、若者を中心にその用途は広がっていきます。そして、次第に常用語として定着していきます。それはいいとして、本来の日本語の存在をも記憶してほしいなと思うのはわたしだけでしょうか。特殊語、隠語など、ごく限られた範囲の人の間でしか通じない言葉だけが残る、そういうことにはならないでしょうが、・・。
表現力は心技体が一つになってこそ豊かになる
自分の心、考え方、情を伝える道具としての「ことば」を、もっと、大事にしないといけないと思っています。自分も理解され受けとめてもらえなくなってしまいます。それ以上に、相手のことをしっかりと分かり、信じることができるようになっていくでしょうか。ちょっとした行き違いで、絆が切れそうな気もします。これでは「親友」はなかなか生まれませんね。そういえば、近頃、友だちはたくさんいるけど「親友」と呼べるような人がいないんだよ、とよく聞きます。悲しいさびしい出来事だなと、わたしには思えます。
言葉とともに重要なのが表情と表現力、顔の表情、身体をともなう表現等ではないでしょうか。上述の二つの大会に出場した若者たちも、ことばとともに表現力を用いて自分のありだけの思い、考えを伝えたのでしょう。それによって、聞いている人、見ている人に感銘を与えることができました。それこそ「心・技・体」が一つとなって聴衆を魅了したのです。
福音では、兄と弟のそれぞれの言葉と行動を対比
今日の福音の話には二人の息子と父親が登場します。父親は二人の息子に畑で仕事をしてくれるように頼みます。兄は断りますが、弟は承諾してくれました。しかし、弟は結局は仕事をするために畑に行くことはありませんでした。ところが兄の方は、考え直して畑に行きます。二人の息子は、長年、父親とともに生活し、交わりもあったはずです。だって、親子ですもの。したがって、お互いの考え方、仕事に対する思いなど、その言動に関しては熟知されていたものと思われます。
ここで注目したい表現があります。兄が「考え直して」畑に行ったという言葉とその思いです。はじめは、束縛されるのが嫌だなと思ったのでしょう。その思いがあって反射的に「ノー」といったのでしょうが、その後、彼の中で落ち着きがなくなったのではないでしょうか。自分の思いのままに行動していても、どこか違っているような感覚にとらわれたのでしょう。良心の「呵責」とでもいうのでしょうか。
ポイントは、良心の声に反応して「考え直す」こと
そういえば、わたしたちも日常そのような感覚になることはないでしょうか。誰にでもある「良心の声」に敏感に反応しているかどうか。好きなことばかり、自分勝手な振る舞いに固執する限り、その人の「良心の声」はだんだん小さくなっていきます。人本来の生き方を放棄していくことになります。「良心の声」は、イエスさまからの呼びかけでもあります。目先の楽しみ喜びを追求することをやめるには、勇気ある決断が要求される時もあるでしょう。
相手を理解し、理解され、受け入れられてこそ、お互いに、「人らしく」生きることができるのではないでしょうか。そのためにも言葉、表現、表情は日頃から大事にしたいですね。
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