年間第33主日(A年)の説教=マタイ25.14~30
2014年11月16日
「一本の箸を人差し指と親指で持ち、中指を添えてみましょう」といえば、何のことかお分かりでしょうか。そうです。「箸の持ちかた」の講座が開かれているという、しかも、大人向けの講座が日本各地で開かれているということです。(讀賣新聞朝刊2014年11月7日西部版)
「箸がうまく使えないので、いつも洋食を注文してしまう」「仕事で会食する際、箸をうまく使えないのは恥ずかしいと思って、・・・」と打ち明けて来る人が多いとか。和食が海外でも人気が高まり、外国人から箸の使い方を聞かれる機会も多くなってきたようです。
箸は毎日の食事時にお世話になります。毎日のことですし、特別なことでもありません。日常のことですので、さほど重要な注目すべきことと感じたこともないでしょう。さりげなく生きてきた毎日の小さなことが、いざとなりますと表だって目立ついい効果をもたらしますし、その逆の結果をひきだしてしまうことがあります。その人の持っている能力は日々の些細な経過の中で研ぎ澄まされますし、全く芽を出さないまま終わってしまうものもあるのかもしれません。
今日の福音はこのあたりの「生き方」に対して喚起を促しているのかな、と思っています。つまり、いただいているタレントは、「生かそうとしない限り」くださった方の意図を実現しないまま、失礼をしてしまうということです。
この視点に立って福音書を見ますと、今日の話の焦点は第三のしもべにあることが頷けます。三番目のしもべは、預かった金を地中に埋め、隠しておいたのです。お金は減ってはいませんが、増えてもいません。しもべは自信をもって「良いことをした」と思っていたのでしょう。だからこそ、「怠惰なしもべよ」と叱責された時に弁解のことばを述べます。
当時の考え方からしますと、地中に金を埋めることは安全かつ最良の方法と考えられていました。だから、しもべは自信があったのです。彼には見落とした重要なものがありました。それは、主人が「なぜ、お金をゆだねたのか」という意図した内容に、心が至らなかったのです。仮に、預かったお金が減ったとしても、「生かそうとした」努力があれば、主人は叱責しなかったのではないでしょうか。しもべの見込み違い、思い違いからでたすれちがいでした。
わたしたちも油断をすると、このようなとんでもないことをしでかしてしまいそうです。主人の、神の「意図したこと」を、自分流に思い違いをして正当化してはいないでしょうか。静かな振り返りを大事にしたいものです。
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