復活節第2主日(A年)の説教=ヨハネ20.19~31
2014年4月27日
「十人十色」という諺があります。調べてみますと、「人の好みや考えはみな違う」というたとえ、という説明が記載されていました。一般には判断しにくい一卵性双生児の間でも、当然でしょうが、違いがあるそうです。
ということは、人の数だけ喜び、楽しさ、苦労、辛さ等があるということになります。「喜び」「悲しみ」の境目はどこにあるのでしょうか。人によっては、同じ体験をしても、反応が違ってきます。それは、「体験」の前の、その人の置かれている何かが影響しているのでしょう。わたしの独断と偏見になるかもしれませんが、それは民族に関係なく、お国柄に関係なく、人がそれぞれに抱く、心に「不安があるか、ないか」によるのではないかと思うのです。
一般にいう「トラウマ」なるものを感じる時には、何をしても、しかも多くの人が楽しいと思うことが眼前に展開されていても、反応がなくなります。ご本人はとても辛い思いを強いられます。自分は望まないのに、憂鬱になっていきます。その虜になってしまいます。
こうした経験は、多くの人が体験しているのではないかと思いますが、・・・。
何も「トラウマ」でなくとも、なんとなく不安な自分を感じることはあります。
今日の福音に登場する弟子たちも、まさしく、こうした精神的状態に追いやられていたのではないかと思います。
生きるために、絶対的な頼みとしてきたイエスさまが、むごい「十字架の刑」に処せられたのです。混乱と不安と絶望の中にいる自分に気付かされたのでしょう。「家の戸に鍵をかけて」無言のうちに集まっていたのでした。
弟子たちにとって、師であるイエスさまを守れなかったことに対する、自分たちの卑怯さにがっかりしていたのでしょう。その後味の悪さも、等しく感じていたのではないでしょうか。自分たちの周りで起きる動きに一喜一憂していた毎日の生活の中で、イエスさまが「あなたがたに平安」といって現れたのです。
その言葉とイエスさまの姿には、弟子たちが気にしていた裏切りなどを咎めることなど、全くありません。なんと、ありがたく、平安をいただいたことでしょうか。
「恐れるな。わたしは死んだが、いつまでも生きている」。この世で、どんなに強い人の悪意に押しつぶされそうになっても、それで終わりではないことを証明してくれたのが、今日のトマスへのご出現でした。「見ないで信じる人は幸い」の世界に生きているのが、今のわたしたちです。主よ、信仰を強めてください。
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