待降節第4主日(C年)の説教=ルカ1.39~45
2012年12月23日
年末に近づきました。このことは何を意味するのか、と問えば、一年の総決算をしなければいけないと思う方が多いのではないでしょうか。いろいろな意味で振り返りをすることは大事でしょう。そう言うわたしもそのような心境になっています。
その中身を公にいう必要はありませんが、もの、人の真価が問われるのは、何かに追い込まれたとき、心が暗くなり、卑屈になっていくときです。こうした暗闇の中で、人は試されていきます。本物があらわになるのです。
イスラエル民族の歴史は、神の約束の実現を待たされ続け、神の約束のことばとは相反する、悲惨な出来事の連続でした。神がおいでになるなら、神が本気で自分たちのことを心配してくれるなら、とうてい起こりそうもない残酷な歴史を体験してきたのです。
ところが、ついに喜ぶべき時が訪れたのです。このことを告げるしるしがエリザベットのあいさつのことばに表れています。「ああさいわいな方、主から言われたことばが実現すると信じたかたは」。エリザベットは、このことばを「聖霊に満たされて」言ったと記されていますが、彼女自身はそのことを自覚していたのでしょうか。
このことを知る根拠はどこにもありませんが、意識していてもいなくても、聖霊は働かれるのです。そして、マリアさまが「主の母」になることをエリザベットに悟らせたのはまさに「聖霊」なのです。聖霊は神の力だからです。聖霊がエリザベットの心と口を開かせて救い主の到来を宣言したのです。
マリアさまがお生まれになるずっと前から言われていた、神の約束のことばが、マリアさまによって実現したのでした。だから喜ばしいことで、胎内の子が「おどった」のでした。
イスラエルの民族の生きざまは、「試し」の連続で、しかも、辛い出来事の連続でもありました。その中にあって、彼らは神の約束を子々孫々に語り継いでいったのです。その過程で真実の信仰を養成していったのです。その信仰をマリアさまは受け継いでいました。「必ず実現する」と信じ、その先方を走られたのがマリアさまご自身でありました。「フィアット」の応答は、すべてを神に託するマリアさまの信仰心の最高の奉献でした。
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