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王であるキリスト:絶望から希望への転換で特別なことは必要ない

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王であるキリスト(C年)の説教=ルカ23.35~43

2010年11月21日

神のまなざし

ずいぶんと昔の話になります。若い女性だけを狙って、連続殺人事件を起こした男の人がいました。10年近い刑務所生活の末、死刑の刑に服したのです。死刑執行当日、同じ刑を受けるある女の方がおりました。その女の方は、執行直前まで、周囲の立会人に向かって叫び続け、愚痴っぽいことを並べ立てたといいます。男の人は、静かに過去を振り返り、回心の情とともに祈りながら刑に服したのでした。

男女の違いはあっても、今日の福音書を読みますと、上記のことを思い出しました。死刑の判決を受けるのであれば、周りの人々の幸福を破壊し、平和を乱し、悲しみの原因を作ってきた人たちでしょう。社会からは当然の結果として(?)、見放され、当事者の家族の人も肩身の狭い思いをしながら過ごしてきたことでしょう。

人のこの世における最後の瞬間には、その人のそれまでの生きてきたすべてが凝縮された形で表に出るといわれます。それからしますと、十字架刑に処せられる二人は、同じような生き方をしてきたにもかかわらず、どこかで何かが違っていたともいえます。

しかし、もっと驚くべきことは、まったく生き方の違うイエスさまと同じ刑を受けているという現実です。当時、十字架刑は極刑でした。したがって、「十字架刑」に対する見方も当然、イエスさまと二人の盗賊との間では違っていたといえます。二人の男たちにとっては、十字架は絶望であり、死です。イエスさまにとっては、希望であり、生命です。

王であるキリスト:「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
王であるキリスト(C年)の福音=ルカ23・35~43 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。

また、イエスさまの生涯で、その教えを受け入れる人と拒む人がいたように、イエスさまが息を引き取る瞬間にも両者が存在します。拒む人にとっては、光(イエスさま)が近くにあるのに、自分の世界に閉じこもったままで、光の進入を遮るのです。そして、彼の人生を終えることになります。

一方で、絶望から希望への転換のために、何も特別なことは必要ありません。自分の罪とその汚れに目覚めるだけでいいのです。あとは、イエスさまが引き受けてくださいます。また、イエスさまは、その人の過去の償いを求めるわけでもありません。責めたりもしません。救いの道はゆるしだけなのです。わたしたちの罪の責任をイエスさまが代わりに背負ってくださいます。ここに今日のルカの福音のすばらしさがあります。

王であるイエスさまの役割が、今日の福音で示されているといえます。「人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである」(ルカ19章10節)。

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