『復活の主日』の聖書と説教はこちら

Fr.YASU

2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第1主日:まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めること

だからと言って、働かなくてもいいということではありません。食べ物を得るためだけの働きではなく、生きる範囲、幅は広いものであるということでしょう。わたしが生きるのは、わたしと、近くでは、わたしの周りにいる人のために役立つことなのです。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第2主日:真の救いはイエスの十字架の死を通してしかありえない

神のなさり方には、人の思いをはるかに超えた思いと動きがあります。わたしたちの日常の苦しみ、辛さも、その先には、平安、楽しさ、安心がまっていることを確信したいものです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第2主日:祈りができないときは祈祷書を使う。神の声に耳を傾ける

日常で、毎日の祈りができない瞬間、時、日があります。学生時代は、そのようなときは祈祷書を使いなさいと言われたものです。日常を述べる、語ることばかりではなく、神に耳を傾けることも大事ではないかということです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第2主日:イエスの問いかけ、矛盾に見えることを受けますか?

イエスは神本来の自分の姿を「捨て」て、わたしたちの人生にご自分の人生をあわせられたのです。そして、弟子たちにその心構えをお示しになったのでした。それは、今のわたしたちに対しても同じことが言えます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第3主日:絶望的な時であっても、希望をもち続けることが大切

今に生きるわたしたちにとっても、「救われた」「元気をいただいた」等、そのように感じた出会い、人、出来事があることでしょう。それらをしっかりと記憶しておくことでしょうね。それによって、次のステップへと飛躍できます。主よ、今日出会う人と、お互いに高め合うかかわりでありますように、・・・。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第3主日:安らぎは神に!金銭の魔力に求めると「堕落」へ

イエスさまは当時の指導者階級のごまかしに目をつぶっているわけにはいかなかったのです。神への純粋さをなくした世界に、もう一度愛の炎を点じようとなさるのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第3主日:神はそばにいる。不意の不幸にも「信じて生きる」訓練を

神の「沈黙」は何を意味するのか。わたしたち一人ひとりに「回心」のチャンスを与えようとしての恵みの時なのです。パウロは言います。「だれがキリストの愛から、わたしたちを引き離すことができようか」。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第5主日:人の原点は神に愛され、ゆるされ続けていることです

人は人を「罪人」であると判定できません。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、神はゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第5主日:イエスの教えは自己愛の否定で新たな命の息吹を

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」。イエスさまがこの話で伝えたいことは何でしょうか。「自己愛の否定」自分が自分であり続ける限り、新たな命の息吹はありえないのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第4主日:「名詞」の愛ではなく、動詞で「愛」を実行しましょう

愛は名詞ではなく、動詞なのです。つまり、口先だけでいう名詞の愛ではなく、おなかをすかしているわが子に対して、そっと手渡すコッペパン一つで親の愛が伝わります。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第4主日:「あの過去のせいだ」と、自らの道を塞いではなりません

マイナスイメージだけが膨らんでいく経験がおありでしょうか。「やはりだめだ」ではなく、「また新しいスタートだ」と考えましょう。終わりは神が準備してくれます。自分で作る必要はないのです。神のわざ、はからいに気づくために。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第4主日:小さな破片の中に本当の宝物は潜んでいます

ニコデモは「あのようなしるしは、神がともにおられるのでなければ、だれにもできないからです」という宝物の秘密、ワン・ピース獲得を目指してイエスさまのもとに来た。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第20主日:評価を気にせず、粛々と自分が歩むべき道を進む

わたしたちは誤解を解こうともがきますが、イエスさまは粛々とご自分が歩むべき道のりを進みます。ここに、イエスさまの卓越さと優しさがあります。わたしたちには、いつも、事が終わってから気付くのです。イエスさまは人の評価を気にしません。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第19主日:イエスが弟子たちに求めた生き方は、「神がすべて!」

イエスの弟子の生き方は、「神がすべてである」ということです。一方、私たちは「お金がすべてであり、地位、高学歴が第一である」という社会の流れを断ち切ることが、まず大事な作業になるのでしょうか。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第2主日:カナの婚宴の奇跡に学ぶことは、懸命の祈りと願いは叶う

神は救ってくださるお方。ゆめ忘れてはいけない大事なことです。つまり、祈り、願いの内容は神にゆだねたらいいのです。必死に祈り願ったことがあったでしょうか!?
2012年/B年説教=主との出会い

年間第2主日:世話を受ける側から世話してあげる側にまわる

ヨハネから促されてイエスさまについていった二人の弟子は、その滞在場所を見、そこに留まったのです。イエスさまから何かを受け、何かを感じたからこそこうした行動に出たのでしょう。
2014年/A年説教=神のたしかさ

主の洗礼:イエスさまは、まさに「われわれと共におられる神」

主の洗礼の祝日が年明けの今日、祝われるということは洗礼の時の、あの神のことばを意識するいい機会をいただいたといえます。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

主の洗礼:民衆とともに洗礼を受けられたのは、イエスの思いの表われ

ルカは民衆の受洗とイエスさまの受洗を並記しています。ヒューマニストとしてのイエスさまの姿は興味ある内容ですが、大事なのはイエスさまを通してなされた神のみ業であるということです。
2012年/B年説教=主との出会い

主の公現:博士たちは自分の力ではなく導かれて辿り着いた

東方の博士たちは、導かれ惹かれて幼子の元に辿り着くのです。わたしたちもこの姿勢をいつも大事にしたいものです。日本の風物詩の中にも神のメッセージを読んでみたいです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

主の公現は闇に差し込む光!私たちもひかりへの新たな旅立ちが必要です

社会の片隅で生きることを余儀なくされ、闇の中に住んでいる人たちに「光」が差し込んだのでした。それが、「主の公現」の祝日の意味ですし、わたしたちへの温かいメッセージなのです。