『年間第23主日(C年)』の聖書と説教はこちら

Fr.YASU

2017年/A年説教=神のふところ

神の母聖マリア:親子のかかわりを振り返り、「安心感」を提供しあえる家族を目指したい

この一年を、神の母マリアの執り成しと保護に委ねようという思いを強くしてスタートしたいものです。母としてのマリアさまの姿は、多くを語らず、お告げの時に、すでに受け入れていた「未知の歩み」にとても配慮なさっているように思えます。
2017年/A年説教=神のふところ

主の公現:人はゆるされることによって心身の健康を知り、健康な状態を維持していく

東方からの賢者たちは、何にも邪魔されない絶対的な安らぎを幼子イエスに感じ取っていたのではないでしょうか。周囲をはばかることなく、しかも、それまでの自分たちの仕事道具までもすべて奉献する行動に出ています。「安心した心」の状態を示している証でもあります。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第28主日:救われたことへの感謝の思いがあるかが問われている

いつでも招待されることを思い、そのことへの感謝の心がある人と、そうでない人との違いが「礼服」という姿で表現されている、ということです。つまり、救われる(宴席につく)ための資格が云々されているのではありません。
2011年/A年説教=神のみことば

主の受難:イエスは「神よ、神よ、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫ばれた。

イエスさまは人から排斥され、しかも、心血をかけてきた愛弟子たちからも見放されていったのです。この事実をはっきりと認識できる今年の聖週間でありたいと思います。「わたし」の救いは、無実なイエスさまの苦しみの上に実現されたことを、改めて感謝することでしょう。
2011年/A年説教=神のみことば

主の復活:「空の墓」とは?何かが完全に終わるとところに、まったく新しい何かが始まる

過去の生き方に留まるのではなく、まったく新しい世界に導いてくださるのが今日の祝日です。マリアも二人の弟子たちもそのことには気づいていません。人の醜い思いにつぶされたイエスさまの受難と死は、まったく形を変えて、人の救いというイエスさまのわたしたちへの愛に変えられたのです。
2017年/A年説教=神のふところ

待降節第3主日:主の訪れ(キリスト誕生)は、何事にも代えがたい究極の「喜び」です

「主にあってよろこべ」とは、その喜びは絶えることがないからパウロは叫び続けるのです。神の訪れをまことの喜びにできていますか。共に、そう叫び続けられるようでありたいですね。
2017年/A年説教=神のふところ

待降節第2主日:洗礼者ヨハネの宣教は、今の時代に合った信仰の土台を築くよう促しています

通常「待つ」ということは、何もしないで待つのではなく、期待しながら、ワクワク感をもって待つことが多いのではないでしょうか。だから待てるのです。「天の国が近づいた」とヨハネは叫びます。つまり「救い主が来られる」と言われ続けながらも、なかなか実現しない歴史を体験してきたイスラエルの人びと。しかし、それでも彼らは絶望しないのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

主の公現:三人の博士、実はマギ。底辺の人がメシアの誕生に招かれた意味は?

マギは星の光に引き寄せられて、イエスさまを礼拝し、心の安らぎを得て、傷ついた心をほぐしてもらったのでした。そして新たな生きる希望を抱き、委ねる生き方に踏み出したのでした。
2012年/B年説教=主との出会い

神の母聖マリア:「思いめぐらす」が聖母の特徴であり、かつ私たちの模範なのです

日本人は、静寂の楽しみ方を忘れてしまったのでは?表面に出てきた現象だけで判断し、できごとを説明する「ことば」に心が達していないことが現代人をして静寂の楽しみ方を忘れさせているのです。
2011年/A年説教=神のみことば

復活節第3主日:イエスの復活は、苦しみや悲しみが希望ある命への道となることを悟らせます

人間的にみれば、絶対敗北の象徴である「十字架」上の死の中に、本当は価値があるんだということを気づかせようとします。しかし、なみたいていなことではありません。深い闇がきても、悲しさが連続しても、希望ある命への道を歩み続けましょう。神に感謝!
2011年/A年説教=神のみことば

復活節第2主日:イエスは裏切った弟子たちを咎めず、「あなたがたに平安」と言われた。

イエスさまの死は、今も将来に向けてもまったく希望を抱けないほどのショックな出来事でした。ユダヤ人を恐れて戸を閉め、集まっていた弟子たちの間にご自分をお示しになり、一言おっしゃいます。「あなたがたに平安」と。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第5主日:マルタと同じように必死な叫びをあげつつ、その力と恵みを祈りましょう。

マルタの叫びに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」とマルタに迫ります。ここが、今日の福音の中心です。この言葉によって、イエスさまは、ご自分の人生のありようを宣言なさっているのです。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第4主日:見えない者は見えるようになり、見える者は見えなくなる(ヨハネ9・39)

パウロは言います。「恩寵の力は弱さの中に全うされる」と。つまり、神の恵みは、その人の中で自由に働くためには、「過信」があってはいけないのです。「見えていると思う人は」つい、自分の力を過信して自分の真の姿を見つめることができにくくなってしまいます。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第3主日:生きた出会いを求め続けたい。生きた出会いで人は素直に自分を開きます。

人との出会いは、単に一緒にいるだけでは意味をなしません。今日の福音に登場しているサマリアの女の言い分を聞けばよくわかります。彼女は、その人生の大事な時期に、大事な人・イエスさまと出会いました。彼女の言葉にはうそ偽りがありません。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第1主日:「荒れ野のとき」とはどんな「時」?「ノー」と言えるものがありますか

今日の主日は、神を大切にできなかった人間の姿と、おん父に対して最後まで誠実であられたイエスさまとが対比されています。さて、この「わたし」はどちらに属しているでしょうか。イエスさまは「現世的な」生き方に対して「ノー」という返事を出されたのです。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第2主日:「彼に聞け」とは、本能のままではなく、イエスの生き方に学べ!ということ

イエスさまにかかわって生きる人にとって、「イエスに学ぶ」ということは避けて通れない現実です。つまり、わたしたちにとって後戻りできない生き方がそこにはあるのです。一度振り上げた手を下ろすことができないように、自ら選択した信仰の道は、前に進むしかないのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第9主日:真の信仰告白は、「わたしが変わること」「神を感じる」毎日になることです

信仰は徐々に育ちます。弟子たちへのイエスさまの教育も急速ではありませんでした。じっと我慢の中で、しかし着実に弟子たちは信仰において成長したのです。しかも、日常生活の中で。洗礼を受けることは「キリストを主として認めること」です。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第7主日:自分の命も他者のために開く!そうあり続けることがキリスト者の理想では

イエスさまは、ご自分が神であることを固持しようとはせず、十字架上の死に至るまでにご自分をわたされたのです。いわゆる、権利の放棄です。しかも、生きる権利を人々の救いのために放棄なさったのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第6主日:自分の内なる醜さは人には見えないが、神の前にはさらけ出されています。

自分を清めることは神から絶えず求められていることであり、一人ひとりがそれに取り組んでいくならば、地上の平和も実現します。その根本にあるものは、徹底した受容と自己放棄です。イエスさまの生き方がまさにそうでした。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第2主日:「あのかたは栄え、私は衰えなければならない」という洗礼者ヨハネの生き方

洗礼者ヨハネと弟子たちとの出会いは、弟子たちにとって恵みのときとなりました。そうなったのは、弟子たちの心の持ち方もさることながら、ヨハネ自身が何かを持っていたからでしょう。ヨハネは荒れ野で叫ぶ声、光をあかしする者、ぜいたくもせず砂漠の中で純粋に神の世界を求め救いに飢え、待ち望んでいたのです。いわゆる、神に対する情熱でした。