年間第17主日(C年)の説教=ルカ11.1~13
2016年7月24日
世の中、不安な落ち着かない出来事、現象が次から次へと起きてきます。楽しいこと、嬉しいことなどで世の中がにぎやかになることが望ましいですね。人間の力ではどうしようもできないことが、言うまでもなくたくさんあります。このことを百も承知していながら、人はすぐ自己中心になりがちです。私自身、自分を見ればよく分かります。
だからこそ、身勝手ながらも、「神頼み」をしたくなってくるのです。このこと自体、わたしたちの存在が神の方に向けられていることの証しでしょう。これは、お互いが隣人に向いていることによっても証明されます。人が喜ぶことをしてあげられたとき、嬉しくない人はいないでしょう。わたしたち一人ひとりが他者にかかわりを持ちながら、心身ともに高められていくことのしるしでもあります。
「日本人は、神さまへのお願いごとがわりと好きな国民かもしれない。・・受験シーズンになれば『合格祈願』、恋に落ちれば『恋愛成就』、厄年になると『厄除け』などなど」と、ある本に掲載されていました。(「日本の大疑問100」)
自分にとって都合が悪くなる時、都合がいい時も、神に「手を合わせて」しまうことが多いのは事実であろうと思います。本来そのように創造されているのでしょう。だから「祈らなければ・・・」と思う人はたくさんいるはずです。でも、今のところは「いいや」と言って敢えて避けている人が多いのではないでしょうか。
あるいは、祈る人って「負け組」と思っている人がいるかもしれませんが、・・。それは大きな誤解であると思います。どうしても、目の前に展開されていく富、名誉、地位、権力等が「気になって」しまうのです。神のことが「気になって」くるといいのですが、いかんせん、五感に触れることがありません。
でも、イエスさまは、「神」はわたしたち人間に近く、親しい関係にあるんだよといって精一杯「アッバ」を紹介してくれたのです。この言葉は親子の間におけるこまやかな愛情が込められた呼び名であると言われています。神は人間から遠い存在ではなく、親以上の愛情をもってわたしたち一人ひとりの不安を取り除き、強い希望と自信を与えてくださるのです。
「主の祈り」は神の動きを知らせ、その豊かな愛に自分をゆだねるように、その道を開かせてくれます。自分の限界に目覚め、他者(神)への寄りかかりを尊い、大事なものにしていけますように。
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