年間第29主日(C年)の説教=ルカ18.1~8
2010年10月17日
お祭り大好きなある人が、わたしの身近にいらっしゃいます。特に、“ブルーな気持ち”になっている時に、お祭りがあると一度にして楽しくなるようです。「三度の飯より釣りが好き」「三度の飯より走るのが好き」というような方もいらっしゃるかも知れません。
このことは何を意味するのか? 自分が没頭できる何かが一つでもあれば、その人の生きる活路になるともいえます。お祭り好きのあの人も、それまでの気持ちの落ち込みがうそのように、元気はつらつと行動します。
お祭りは、その人にとって、その準備段階からして楽しいんだそうです。言うことなしですね。わたしの父親も釣りが好きでした。鉛を溶かして自分の好みの大きさに作り替えることから始めて、てぐすの太さ、長さの選択もしていたようです。準備することから楽しんでいました。うきも自分で作っていました。昔のことですから、今みたいに便利なものはなかったようです。それで魚を釣ってくると、よく自慢していたのを思い出します。
そこには、いつも小さいながらも、確かな希望があったのではないかと思います。お母さんがお子さんの誕生の時、苦しそうな顔を見せながらも、生まれてきた途端に満面の笑顔を見せるのは、まさに希望に満ちた喜びであると思います。直前の痛みを忘れさすほどの喜びだそうです。これから伴う子育ての大変さなど眼中にはありません。否、この時点では、母親としての喜びの方が勝っているのです。
ところが、現実はそう甘くはないのです。わたしたちには十分な力がないということです。自分の思いのままに生きることはできません。それが、善意にあふれた意向をもってしても、現実は時として冷酷です。自分の希望を実現するために、自らにその力がないとすれば、力ある人の助けを借りるしかありません。
今日の福音の未亡人は、こうした状況に置かれていたのだと思います。力ある裁判官に助けを求めました。その叫びは、彼女の心からのうめき声であり、それは同時に神の思いの真っ只中に届いたのです。しかしすぐには届きません。わたしたちは時として、待たされます。わたしたちにはわからない神の特別な思いがあるのです。そこにわたしたちは信頼するのです。信頼しながら待つのです。
ここに今日のイエスさまからのメッセージがあります。
裁判官はしつこい未亡人の訴えに根負けした形ですが、神はそうではありません。いつも、わたしたち一人ひとりのしあわせに配慮なさる方です。神が何もしてくださらないと思う時、事があっても、「信頼して待つ」ことです、と今日の物語はわたしたちに訴えます。わたしたちが願う前から、神はわたしたちの行き詰まりをご存知です。わたしたちにできること、それは、信頼することです。これを支えにして生きたいですね。
コメント