年間第22主日(B年)の説教=マルコ7.1~8、14~15、21~23
2012年9月2日
「カトリック信者さんならもっと立派な人々だと思って教会の門をたたきました」「しかし、教会の中には変な人がいるんですね。幻滅です」。いつのことだったかは忘れましたが、実際にわたしが、信者ではない人から言われたセリフです。
どうやら、カトリック教会には立派な人ばかりがいると思われているのでしょうか。その輪の中に入れば自分も立派な人になれるとでも思っていたのでしょうか。「立派な人になる」ことが、そんなに大事なことでしょうか。どうでもいいとは言いませんが、「立派になる」ということは何を称していうのでしょう。それを計る物差しはありません。第三者が見て分かるものではないのです。しかし、人は外見で計ってしまいます。そこから「形骸化」が始まるのです。
どうも日本人には「他力本願」が多いんですかね。他者の威を借りて立派になろうとする方が多いような気もしないでもありません。今回の男子柔道では、金メダルを獲得することができませんでした。東京オリンピックいらい、はじめてのことだそうです。柔道が世界のスポーツになったことはうれしいことですが、しかし、柔道の原点が失われてきたのではないかと感じてしまいました。レスリング的になってきたのかな、・・・。また、「史上初」とか、何年振りのメダルとかが多かったオリンピックでした。
「武道」は形も大事ですが、心も強調されます。お互いはつながっているのです。「信仰道(?)」においても、心と形は大事です。人が肉体をもって生きている限り、形を軽視することはできません。形は心の表現でもあるからです。世にいう「スパルタ教育」は、まさに形からはいっていく教育(?)といえますかね。
イエスさまが今日指摘なさるのは、「形があれば十分であるというような錯覚にとりつかれないように」ということです。形だけがむなしく残ってしまうことがありがちだからです。日常体験することですよね。そうしたことにこだわっていた当時の宗教上の指導者たちを手厳しくおとがめになります。狭い心になっていきやすいからです。真実を見失わないようにうちなる心にゆるしと恵みを注ぎ込んでいただきましょう。まず、「わたし」の中から癒しと清めを、・・・主よ。
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