年間第24主日(B年)の説教=マルコ8.27~35
2012年9月16日
「一体あの人は何者?」といいたくなる人が現実にいらっしゃいます。いい意味でも、そうでない意味でも。人の評価はあくまでも主観的な要素が強く、客観的な基準はないのではないでしょうか。強いてあるとすれば、教養があるとか、学歴とか、職歴等、五感で分かりうるかぎりの範囲に限定されます。
世にいう「もの知り」な人は、確かにその場を楽しませてくれます。飽きないですね。そうした状況を提供してくれる「もの知り」は、いたっていい方です、とわたしには思えます。中には、知っていることを自慢する人もいますので、・・・。いずれにせよ、ちょっとした事を知っていることは、少なくともマイナスにはなりません。自分が興味を抱く分野で「知る」ことを満足させていけばいいのではないかと考えます。
ここでちょっと休み、本を読んでいましたら、次の内容が目に入りました。「『のろし』はなぜ『狼煙』と書くのか」という問いかけでした。「のろし」はその昔、緊急の時、煙を出して知らせたのでした。その由来は、中国の古典(9世紀)にあるようです。「狼煙の煙は直上、烽火之を用いる」とあります。のろしを上げるとき、狼の糞を混ぜて燃やすと、風が吹いても煙がまっすぐ上にのぼるといわれてきたのでした。このようなことを知らなくても生きていけます。でも、その場をつなぐことはできるのです。
いずれにせよ、イエスさまも「あなたがたはわたしをだれと思うのか」と弟子たちに問いかけます。イエスさまは単なる「もの知り」ではありません。その説教の力強さに人々は驚き、病人をいやす力に感動し、興奮します。
それでいて、イエスさまの正体が人々にはつかみきれないでいるのです。それは弟子たちとて同じでした。ペトロは「あなたはキリストです」と答えましたが、その実、分かってはいませんでした。それは、すぐ後のペトロのことばによって知ることができます。イエスさまが、ご自分の生涯を示されると、ペトロはそれを拒んでしまい、イエスさまより「サタン」呼ばわりされるのです。
ペトロの考えは、当時の人々のレベルを超えてはいなかったのです。つまり、メシアとは、群衆を一つに結集させ、ローマの支配から人々を解放し、自由と独立を与える存在であったのです。それに対してイエスさまは「あなたは神のことではなく、人間の思いにしたがっている」と、彼らのメシア像を砕いてしまいます。
こうしたメシアを伝えるのが聖書です。ゆるしと愛のわざが記されています。
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