年間第28主日(B年)の説教=マルコ10.17~30
2012年10月14日
『「温泉といえば草津だね」
「いや、絶対に別府だよ」
「そうかな、下呂が最高だと思うけど」』
と、三人がともに譲らない会話をしていました。そんなとき、和をもって貴しとなす日本人が、三人寄って編み出した文殊の知恵。それが「三大」ではないでしょうか。
ナンバー1の誉はもちろんうれしいことですが、出る杭はなんとやらの日本ではカドが立つというわけです。とはいえ、「二大」では対立構造がはっきりとしていて、どこか美徳にそぐわない感じになります。そこで「三大」が登場するというわけです。そもそも日本人は昔から「三」にこだわってきたようです。「三種の神器」は権威の象徴でした。江戸時代には「御三家」が力を発揮しました。こうして生まれてきたのが、わたしたちが耳にする「三大」が定着したといえます。「維新の三傑」「三大砂丘」等々、数多くあります。
日本ではかつて「長屋」住まいが普通でした。というより、日本人気質は、この生活様式から生まれ出たといえないでしょうか。みなが等しく、同じように生活し、助け合い、物を共有し、ともに成長してきたのではないでしょうか。それが、財力が手元に残るようになると、とたんに他者に冷たくなり、核家族化していったのでしょうか。よくいけば自立、悪くなると利己的になってきたような気がしてなりません。
今日の福音書に登場する青年は、まさに自立か利己主義者になるかの選択を迫られているといえます。それまではよい家庭、いい環境に恵まれ、無難な人生を送ってこられました。社会のルールからはずれて無軌道に突っ走るわけでもなく、そうかといって社会に献身するでもない青年のような気がします。今流にいえば、「自分の趣味の世界に没頭する」青年であるといえるでしょうか。そこから一歩突き進むためには、「一つだけ足りない」ことがあったのでした。「持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい」(マルコ10.21)。
イエスさまは、この青年が生活の楽しさに執着しているのを見抜かれたのでしょう。彼のもっている誠実さ、熱心さからして、燃える火を焚きつけたのではないでしょうか。生ぬるさからの脱出を勧告しています。それは同時に、物質文明豊かな社会で、熱くなく、冷たくなく、なんとなく生きているかもしれないわたしたちへの勧告でもあるでしょうか。
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