待降節第1主日(A年)の説教=マタイ24.37~44
2013年12月1日
今日から待降節に入ります。文字どおり、主の降誕を待つ節目の期間となります。そして、「人の子のあらわれの日」であり、その時をじっと待つことの大切さを学ぶ期間であります。それは「たしかな」ことです。
「その時」についてはいつなのか、だれも予測できません。また、わたしたちの都合で、遅くしたり、早くしたりすることもできません。神のいわば、一方的な都合です、計画的な業なのです。だからこそ、わたしたちに「その時」がわかるはずもありません。ただ単に、その時が「わからない」だけでなく、その時の中身をも体感できないもどかしさがあります。
今年も天候の異変が頻発し、異常な大きさ、強さの台風が発生し、外国では紛争も絶えない年でした。命は脅かされ、危険度が増してきた感がします。それが日常的になってきているところに、不安を感じます。
自然界の力の前では人間の力なんて無力なものですが、人間の共同体作りにおいては、一人ひとりの力は強力なものです。とはいっても、開花するには時間がかかります。忍耐が必要です。待つことです。何かをしながら、・・・。手をこまねいて、何もしないで単に待つだけでは「時」の無駄使いになります。
それにしても、わたしたちの毎日は、期待しながら、希望しながら、待ち続ける積み重ねではないでしょうか。人を相手にした生き方を捨てない限り、いつまでも続きます。そして、天国に行ける日が熟した時に、その命を神に返すのです。したがって、「救いは」日常の生活の中で実現していきます。ノアの話でもそうです。「人の子が来る場合」でもそうです。ただ、目を覚まして、神のしもべとして忠実に従う人が救われるのです。それを知っているのは、神のみです。
今や、世界全体が愛といつくしみを失い、深く傷ついています。平和を望みながら、一方で争いが始まるのです。なんと自己矛盾の中に生きているのでしょうか。それでも、神の無限のいつくしみを期待し、神の救いの確かさを待ち続ける術を学びましょう。
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