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年間第21主日:強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰がある

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年間第21主日(A年)の説教⇒2026/08/23

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第21主日(A年)の聖書=マタイ16・13~20

2026年8月23日

日本の西では、2026年7月28日に発生した「令和8年熊本地震」があり、東では、「千葉豪雨」と甚大な災害に見舞われました。

「熊本地震の規模は気象庁マグニチュード(Mj)7.1、震源の深さは16 kmで、熊本県の宇城市と八代郡氷川町で最大震度7を観測した。国内で震度7を観測する地震は2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震以来2年6か月ぶりである。また、熊本県内では平成28年熊本地震(2016年4月14日・16日)以来、10年3か月ぶりに震度7を観測し、熊本県内で3回目の震度7を観測する地震となった。この地震により有明・八代海に津波注意報が発表された。」(ウキペディア

この度の地震では、「10年前の地震よりもひどい被害を受けた」という人々がかなりいらっしゃったという報道もあります。千葉の豪雨による被害も、豪雨が収まってみると、想像もできない被害が続出です。

自然界の力による災害は、できる限りの防御をわたしたちが施しても、その力に抵抗することはかないません。でも、「人間の業」である戦争は事前に防ぐことはできます。この度の二つの災害は、奇しくも日本では、「終戦記念日」と「お盆」に重なってしまいました。

世の中には、こうした事件が発生するたびに、この機会をとらえて新たな詐欺事件、SNSによる犯罪等も出てきますよね。こうした現象は実に悲しいです。

でも、こうした中で、明るい、嬉しいニュースもあります。(讀賣新聞西部版2026年8月17日朝刊)

「熊本地震の被災地を励まそうと、サッカー日本代表監督の森保一監督が16日、大きな災害を受けた熊本県氷川町などを訪問した。同町立竜北中では集まった地元の小中学生ら約500人に『皆さん大変な思いをしていると思うが、励ましのエールを届けたいと思って来ました』とあいさつ。写真撮影やハイタッチをして交流した。同中1年でサッカー部の島田彩聖(しまだ あやと)君(13歳)は、『「これからも頑張ってね」と声をかけてもらえて嬉しかった。元気をもらえたので自主練習を頑張りたい』と笑顔を見せていた」
また、「熊本地震の発生後に活動を休止していた熊本県のPR キャラクター「くまモン」が16日、19日ぶりに活動を再開した。震度7を観測した同県氷川町の小学校を訪れ、子どもたちと触れ合った。くまモンは16日午前、避難所となっている同町立竜北西部小に姿を見せ、子どもたちと抱き合ったり、握手したりして交流。活動を手伝う「くまモン隊」のメンバーがお菓子のほか、『こまめに水分とるんだモン」などと書かれたステッカーを配り、熱中症への注意を呼びかけた・・・2日から避難所に身を寄せているという西村京子さん(83歳)は『(くまモンの姿は)大人も元気になる』とほほ笑んだ」

人の世界では、その名が知られている「人」であれば、その周りの一般の人は疑うこともなく受け入れ、そして、その人から励ましを受け、元気をいただきます。その人の「素性」つまり、どのような方なのか、が多くの人に知られ、認められているからでしょう。世の人々の前に公然と姿を見せ、自分を語り、人々のためになる活動を展開し、だからこそ、それを見てますます励まされ、信頼度が増していきます。

とはいっても、その人が「何者か」は、すべてを知り尽くせません。いくつものその認知を遮るものがあるではないでしょうか。人って、自分、本人すらも、自らを分かっていないところがあるのではないですか。一生涯をかけて「自分探し」をしているのではないかと思っています。多くの人には、そう意識はされていませんが・・・。

年間第21主日:イエスは尋ねる「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
年間第21主日(A年)の福音(マタイ16・13~20)イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。

今日の福音で「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」のです。イエスは、ご自分のことを「わたし」と称したり「人の子」と呼んだりします。きょうのマタイでは「人の子」と言われますが、マルコでは「わたし」となっています。(マルコ8章29節)

「人の子」という呼び名は、旧約聖書では「弱くはかない人間存在」を表しますが、黙示文学では、イエスは「人の子」であると同時に「天からの特別な人」であることが含意されています。(「ヨハネの黙示録」解説より)しかし、それはこの世からいったん捨てられ、殺された後に栄光を受けて人々を救う「人の子」です。また、不思議なことに、イエスが誰であるかが明らかにされるこの出来事は、異教の神や皇帝を礼拝する神殿の町、フィリッポ・カイサリアで起こります。

イエスが誰であるのかという問いは、福音書の最も大事な問いです。外に見えるイエスは、説教し、奇跡をおこない、それを見ている人々の心は、イエスという人間の「特殊性」にひかれ、「何者なのか」というイエスの「正体」まで見通すことなんてできないのです。ところが、弟子たちの目は、人々の見方とは違った目が生まれていたのです。これまでのイエスとのかかわりの中で、イエスの正体が「神の子である」ということに気づいていたのです。ペトロは今日の福音書にあるように、「生ける神の子キリストです」と荘厳に宣言します。

今のわたしたちにとってはどうでしょうか。イエスを見たこともありません。話したこともありません。なのに、「信じている」のです。信仰者としての生活の中で、イエスの正体が見えては消え、消えては見えることを繰り返しながら培われてきたものです。

ペトロがイエスを拒む凡庸さは、また、ペトロの信仰宣言の崇高さは、今のわたしたちの姿でもあるのではないでしょうか。どこかで神を高く見つめながらも、一方では平凡な、しかも、汚れた欲望に引きずられているのです。

でも、こうした強さと弱さのいり混じった今の「わたし」の上に信仰があり、そして、それは神の恵みに支えられているのです。

すべては神の恵みのうちに、・・・。

 

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